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2022/03/24

三年雪組、担任、大山剛先生


昭和57年、4月、私は玉川学園小学部で三年生になり、
雪組になった。
担任は大山剛先生。

専門は体育の先生で、見た目とっても若く、
比較的、薄いブルーのノースリーブのパーカーをお召しになっている・・・
という出立ちが多かった。
それは、下がTシャツでも、ワイシャツにネクタイでも。
ブルー系アーガイルのニットのベストも多かったかな。


三年生になる前の、
3月2日、雪の日だった。
その日に、とにかく大好きだった祖父を失っていた私は、
春休みは楽しいはずもなく、
毎日が沈んで、涙することも多かった日々だった。

三年生であろうと、新学年であろうと、
とにかくナーバスになっていた。
学校が、新たに始まるウキウキ感などといったものは無縁。
ただ、小川中央のバス停からバスに乗り、
つくし野駅から田園都市線に乗り長津田まで、
長津田から横浜戦にい乗り換え、町田まで。
町田から、小田急線の乗り換え、玉川学園前まで。
玉川学園前の駅から歩いて10分ほどだろうか、
小学部まで向かっていた。喪失感と共に、学校に。


新しいクラス・・・一番最初、グランドでの全校朝会が終わって、
教室に戻り挨拶・・・という流れ・・・
かと思いきや、その前に、

いきなり大山先生の指示で、雪組は、
教室に行くその前に、
校舎前の大きなヒマラヤ杉の周りで、
大山先生が一人、鬼役になり、
鬼ごっこで遊んだ。

先生がマジな全速力で追いかけてくるので、必死に逃げたが、
合谷君以外、
ほとんどの生徒が大山先生に捕まった。
汗だくになって真剣に遊んでから、教室へ行き、自己紹介などなど。
この頃には、ナーバスな気持ちを忘れていた。
朝の喪失感は消え去っていた。

マジ鬼ごっこの賜物。

三年雪組。
その教室に入った時の事を、鮮明に覚えている。

二、三年生が一緒になった細長い平家の校舎の三段の階段を上がって、
建物の構造的に一区切り、
ここから、三年生のエリア!と言う、校舎の中ほどに、
三年雪組の教室はあった。

その教室の記憶はいまでも鮮明だ。

教室後方、右側の廊下と反対側には、タイヤが4本積み重なっていた。
子供的に言えば、かなりギザギザなタイヤ。

それまで、タイヤは車に付いているものであって、単体で4つ見るのは初めて。
もう男子は興味津々。
1番最初の注意で、そのタイヤで遊んだら怪我するから。ダメ!
そして、そのタイヤは先生の宝物だから、イタズラするな!といわれた。

それは、先生の車、スカイブルーのファミリアと言うクルマの予備のタイヤで、

『そのクルマでは、ユーミンをかけるんだ。そうするとデートが成功するんだ。』
『ドアは、運転席の鍵を最初に開けたら野暮。いいか、
助手席から鍵を開けてー、
ドアを開いて女の子を座らしてあげれば、カッコいいでしょー!』

もう、今まで教わったことのない情報、話題に、それまでの先生とも違う、カッコよさみたいなもの、そして憧れを感じ始めた。

そんな話は、初めて聞くもの。

男の大人の人は、すごいな〜!と。
つまり、『先生』よりもまず、
『男の大人の人』だった。

始業式当日、家に帰って母に話したのは、
新しいクラスでは、教室にタイヤがある事、あと、スキー板もあること、
そして、怒ったら、玉川学園で1番怖い先生なんだって!という報告をしたと思う。

しかし、その報告は、祖父の他界を忘れさせてくれちゃうくらいのもので、
どれくらいの大声で怒るのか、初日に実演してくれたので、
ヤッバイぞ〜!と言う感覚もどこかにあった。

クラスについていくこと、先生に目を付けられないようにすることで
毎日が、とにかく速い流れで過ぎていった。


そんな新しいクラスでの時間、春の運動会、
小学部体育祭がすぐだった。

それまでの私は、
正直、体育という授業は、あまり好きじゃなかった。
走るのも遅い…はずだし、
嫌だなぁ…体操も華奢な僕は好きではなかった。
まあ、マスゲームは、スッゴく楽しいけれど…
なんて、控え目な私・・・なわけだったが、
意外な事がおこった。

そんな春の運動会、体育祭までのひと月あまりを
振り返ると…。

大山先生は、
遊びの時間に僕らが夢中になっちゃう仕掛けを作ってくれていた。
縄跳びでも、進級制度のカードを作ってくれて、
知らない言葉のカードにすら興味を持たざるを得ない状況。

なんだ?ビギナーって?
なんだ?エキスパートって?
プロフェッショナル?
スーパープロフェッショナル?
12段階くらいに分けられていたカードは、達成する度に、スタンプを押して貰える。
なんだかんだ、スタンプを押してもらいたくて、雪組みんなが、昼休みとか、縄跳びとか、
けん玉とか、鉄棒とか、がんばっちゃう感じ。
僕も、ランクアップがしたくて、なんだかかんだ縄跳びやっちゃってた。
すると、エキスパートにいち早く到達したのが、クラスでも合谷くんと僕だった。

今にして思えば、明確なランクアップの基準はなかったのかも知れない。
相対評価でなく、絶対評価。

そんな話をして下さった記憶。
大山先生は、

『誰かと比べるんじゃなくて、その人、一人一人を評価する』
それが絶対評価というものなんだと。
そして、それが玉川学園なんだと。
教えてくださった。

さて、私は、というと、縄跳びはなんとなく・・・出来てしまっていたが、

まさか、クラス1体育が得意な合谷くんと、カードのランクが並ぶなんて…。
僕には信じられない状況だったが、嬉しかった。

とにかく、みんなを、ランクアップするたび、
一人一人、褒めまくってくれていた。

これ、誤解のないようにすると、
決して『先生に褒められた』
ではなく、『大人の男の人に褒められた』な感覚が、嬉しくて、
なんだか、社会に認められたかのような錯覚・・・覚えたのだった。

先生に生徒として褒められた…のではなしに、なんか、
社会に認められ、大人の人に褒められた…感覚。
つまりは、どこかで子供扱いしないで、導いてくれる先生だった。

『え、僕、得意なことがあったなんて・・・』
自分でも不思議だった。

そして、春の運動会は、新しいクラスになって、ひと月でやってきた。

赤組、白組、青組、きいろ組、対抗のリレー選手を決める徒競走。
朝礼のあとに学年であった時、
ふと、大山先生が、
『岡田は3位以内だな』
と呟いてくれちゃった。

そんな事、夢にも思わない僕だったが、

大山先生がそういうなら、そうなの?

と思いつつ、命一杯、走った。
縄跳びの要領で、踵を一切つけずに、爪先だけで、指先までピンっと伸ばして、
ただただ、自分が鹿になった気持ちで、
自分はまたスタンプもらえるかも!
なんて気持ちで走っていたら、そこで一着。
最終で速かったグループで走っても、一着。

みんなに驚かれた。
同じクラスの家田君に、『サイボーグ009みたいだった!』
『加速装置がついてるみたいだった!!!!!』
と言われたこと、鮮明に覚えている。

合谷くんと2人、リレーの選手になった。
もう、信じられなかった。

縄跳びエリート?の二人がリレー選手。

母だって、信じられないくらい驚いていたけど、喜んでくれた。

体育祭のリレー、優勝。

自分でも不思議で、初めて、『突破する…』
と言うことを味わった経験だった。

大山先生のささやきから・・・いや、
縄跳びの時から始まっていた結果なのかもしれない。

春の運動会が終わったころには、
大山先生は、こっわいけど、他のクラスに自慢したい先生で、
そんな気持ちを誰もが持っていたと思う。

先生であり、兄貴であり、大人の男の人。

夏休み前の暑い日には、
大山先生の命令で、学級委員二人が指示を受け、
僕らが授業中に、
歩いて往復20分かけて、
学外のオダキューOXというスーパーまで買い物に行かされた。

授業中に出かけた学級委員二人が帰ってくると、
実は、大山先生の提案で、
内緒で、アイスキャンディーをみんなの分買ってきてくれてていて、
クラスみんなで内緒で食べたりもした。
あれは、私のアイスキャンディー史上、
最高の味わいだった。

もちらん、大山先生のポケットマネーでである。

このクラスは
なんて特別なクラス、
三年雪組なんだ!

嬉しい時間が多かった。

しかし、だ。
正直、厳しかった面の方が、記憶には多い。
クラスメイト、みんながそうだったと思う。

あ、思い出した。
梅雨に入り、廊下が滑りやすい時期。
私が宿題忘れてくれば、
怒鳴られて、ほっぺが真っ赤になるレベルで
一発ひっぱたかれて、廊下に立たされた。

でも、実は私は、立たされている間、
上履きのゴム素材と廊下の素材の滑りやすさの音の不思議を楽しんでいた。
あー、鮮明に覚えている一秒一秒。

トイレ掃除の時にはカネヨクレンザーを撒いてドリフごっこしたりして、
それでも怒られた。
サンポールの空き容器は隠してあり、水鉄砲のようにして遊ぶのが常だった。

ほぼ、すべての男子が、引っ叩かれた。(笑)

三年雪組、大山先生のクラスでは、

クラスの一人ひとりが、何らかの役目や、キャラクター担当という
『こいつが、専門家!』
というような役割を担っていた。

柳原君なんて、掃除の時の焼却炉の専門家みたいだった。
とにかく、何かしらの分野で、
『あれは、このクラスであいつがトップ!』
というキャラクターを作ってくれていた。

秋、サツマイモを収穫したら、
それをクラスで、内緒で焚火をやって、焼き芋に。
そんな時は、大山先生がご指名!
掃除の時間の焼却炉担当、柳原君の出番だったりして、
焚き火の専門家かのような役割で、焼き芋は見事な出来だった!

太田みちこさんは、
草刈り、鎌の使い方が見事で、
先生にほめられていたなぁ。
だから、砥石で鎌を研ぐとき、
私は太田さんに質問をした。
そしたら、お料理がお家でも好きで、
包丁の研ぎ方をお母様に教わったんだ・・・と話してくれて、
そりゃー、刃物、鎌、草刈りプロフェッショナルだわ・・・と納得した記憶。

とにかく、なんかひとつ、こいつはコレ!ってのがあった。

そんなのを、先生は作ってくれていたのかもしれない。
いや、そうだろう。

大山先生には、よく引っ叩かれたし、
あれは、今でも本気だと思うレベルで殴られもした。

だけれど、心を殴られていたのではなく、あくまで身体。
心が倒れないように支えながら、その平手打ちは身体が吹っ飛ぶほど。
痛かったけれども、心は倒れはしなかった。

きちっと、支えながら殴ってくれていた。
身体を通して、心まで届く教えを、必死に伝えてくれていた。

今にして思えば、言い訳した時だったと思う。
引っ叩かれたりしたのは。

宿題を忘れた・・・だと叱られる。
宿題はしましたが、持ってくるのを忘れました・・・殴られる。

そんな違いがあったと思う。

嘘をつくか、言い訳をしたとき。

そうでない場合、叱られる時は拳をゲンコツにして、
こめかみグリグリ。

竹製の1メートル物差しで、フルスイングお尻パッチン。

あれも痛かったが、どこかでクラスのエンターテイメントにもなっていたから、
みんなの前で恥をかく・・・ではなく
その儀式が終われば、
みんなに『どれくらい痛かった?』とか
女子からは『大丈夫?死ぬくらい痛かったの??』
というような、質問を受ける主役にすら、なれるものだった。

殴られても、引っ叩かれても、
クラスの中で、クラスメイトから軽蔑されるようなことはなく、
『対、担任教師』という価値観で、仲間意識がクラスにあった。

なにより、愛情があることを
やられた本人が理解できる何かがあった。

手を差し伸べながら、引っ叩く。
心が倒れないように。
心支えつつ、殴る。

その原点が、新学期の一番最初の、
本気にならざるを得ない
『対先生』の鬼ごっこだったのかもしれない。

先生は本気で向かい合うよ!があった。

楽しい・・・ということを、
当時リアルタイムに、特に感じていたわけではなく、
毎日が、速く過ぎて行く時間だった。
今にして思えば、それは楽しかったからだろう。

小学三年生で、リアルタイムに、
『この先生は心に残る!』なんてはずは、
そりゃないわけだけど、
大山先生のことは、私は四年生になっても、五年生になっても、六年生になっても、
すごく意識なさざるを得ない先生だった。

さて、玉川学園では、
小学六年生で卒業前に、原稿用紙100枚以上という基準で、
自叙伝を書かされる。

まあ、色々と書いたが、実は小学三年生での出来事や、
思い出は、サラッとしか書かなかった。

これにはハッキリとした理由がある。

それは、リアルタイムな、現実的当時に、
まだ、その小学校に通っている現役小学生として、
小学3年生時代は、
『内緒にせねばならない事』
でもあったと、勝手に思っていたから。

アイスキャンディーはじめ、焼き芋、
授業中にインスタントラーメン作り、
水の上に油絵具を浮かせて作った、マーブル製作、などなど。
とにかく特別なことがいっぱいだったから、

小学6年生の私は、3年前の出来事でも、
担任の小山内先生や
国語の佐伯先生にはバレてはならない!
との意識が働いていたのかも知れない。
リアルタイムなら、当然の意識であったはず。

なんだか、小学校で教わること以上のことを、
小学三年生では経験した感覚でいたから、

あれは、あのクラスの中で完結していなきゃいけないんじゃないかと。(笑)

でも、書けば、山ほど書ける内容ばかりで、あえてライトに書いていた。
だって、40年経った、今ですら、
こんな書けてしまう、経験がいっぱいの一年間だったわけだから。

さて、時は今。

昨年から、私が川崎市で、川崎市立玉川小学校の寺子屋の先生をやることになって、
研修カリキュラムに参加した時期、
いろいろな事を考えさせられた。

いつから大人で、いつから子供・・・なのか?

研修を受けている仲間は、
『子供は・・・』
『子供たちは・・・』

この言葉をよく使って発表なりをしていた。

でも、そんな発表や、講習、セッションなどという時間を、
俯瞰で見てしまた瞬間に、
やってることは、僕らも子供と変わらない授業だなと・・・(笑)

いっしょじゃん。今も昔も。
自分の今と、小学生の自分も。

なんで、いつからいつまでを子供として
子供を子ども扱いするの?

成人・・・とは違う基準だが、
答えはないだろう。

そんな時に、大山先生の事を考えていた。

子供と大人・・・ではなく

人と人。

それで接する時間だったんじゃないのかなと。

大山先生みたいな先生を、寺子屋でやりたいと。
そう思った。

教える・・・なんてことじゃなくて、
一緒の時間を一緒に歩んで、
一緒に考える
一緒に楽しむ。
一緒に悲しむ。
一緒に学ぶ。

それぞれの立場で。

だから、大人の男の人・・・を大山先生に感じた・・・のではないかなと。

そして、今、同じように小学生に接している私がいる。


2019年、年末を前にして、もう一人、小学生時代に影響を受けた、
音楽の小宮路先生が天国へ旅立たれた。
その先生に最後、病院にお見舞いに訪れた教え子は、私だったと。
その先生の万年筆での仕事ぶりは、今の私に息づいている。

大山先生の教えも、今の私に息づいている。
ラジオでの皮肉、ブラックユーモアは、
大山先生との出会いがあったからに他ならない。
きれいごとじゃなく、本音を交えて。

今、体罰は問題になる。
絶対にいけないと思う。
けれども、大山先生には、体罰なんてものは無縁だった。
体罰と教育は、明らかに違う。
何が違うか??

引っ叩く、殴る。
引っ叩かれる、殴られる。
それは身体的なもの。
それを、心までやってしまって、愛がないこと、それが
今言われる、体罰なのだと思う私がいる。

大山先生は
心を引き寄せながら。
支えながら。
先生の目に、涙ぐむ瞳を見つけて、
真っ赤な目で目力、マックスパワー引っ叩かれる。
それがなんのためなのか?
それ以上に愛情があること。
感じていた。

それを、生徒が実感できること。
実感している事。

はたから見た行為自体は似ていても、
全く違う。

心が倒れないようにしつつ、引っ叩く。
気持ちが塞がってしまわないように、怒鳴る。
それで、解放し、見事完結してくれる。

誰一人、クラスから孤立させないように、
そのための、実践だったと、

僕らが、その時、理解できていた。
嫌いになること、あるはずもなかった。

イジメ???
無理無理。そんなの出来やしない。
目の前に担任の大山先生という最大の仮想敵?
を前にしては、心の中に思いつきもしない。


閑話休題。

あ、やっと書けたんではないだろうか。
小学6年生の時に書いた自叙伝、当時書けなかった部分、
書かなかった、秘密のパート、
大山っ先生との時間について、
40年たって、ようやく書かなかった部分が、書かれて
あの、自叙伝は、完成した。
と、ようやく言えるのだろうか・・・

40年という時間を経てもなお、
常に憧れの意識は失われていない。

だから、大山先生は、大好きな先生なのである。
いつまでも、追いつけない『先生』である。

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