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2019/05/02

カキツバタなGW

今週は、週の半分出張ではなく、戻ってこれた。

 

さて、年齢を重ねることで、
謙虚になる部分もあれば、
傲慢になっている部分もあるんだと、深く認識するこの頃。
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例えば、苦労を知ることで、謙虚になる。感謝が増える。

 

一方で、子供の時や、学生時代に比較したら、
お金を使えるようにもなり、
お金で得られるものに対して、そこは傲慢なっているようにも思う。

 

小さな額ではあっても、『金のチカラ』ってやつだ。
まあ、僕が言っても、笑われてしまうばかりかもしれないが、
そんなとこだろう。

 

それが、だ。

 

手に入れられないもの、
例えば、時間・・・というものに対して、
切なくなる感覚というのは、
これは手に入れることが出来ないから・・・
ではなくて、お金を払ったとしても、切なさが購入できないことで、
味わえる感覚というものもある。

 

在原業平が、京都十輪寺において塩竃を焚いたような時間。

 

そういうものは、お金や対価を払ったとしても手に入れられない。

 

享楽は手に入れられるかもしれないが、
そうではなく、それこそ在原業平が過ごしたような時間というもの。

 

誰かの事を想い、そのことを思考するための『時間を味わう』ような人生。

 

学生時代、水越先生のもとで、在原業平の研究をしていた
当時の僕の方が、まだ、それに近かったかもしれない。

 

水越先生は、古文に関して、解析ではなく体験なんだと、
いつも仰って下さっていらした。

 

古文は解析されるためのものではなく、
心を伝えるために記されたツールなのだから、
そのツールは解析したって、意味がない。
『理解できる心を養っておくべき』だと。
彼と同じような境遇を経験した人にしかわからない文言が、
伊勢物語には散りばめられているんだと。
『だからこそ、それを理解できる人間になることが、岡田くんの研究なんだ』と、
そんな言葉を僕に下さった。

 

これは、大学の研究室で、島川聖一郎先生も、
同じニュアンスの事を、シェイクスピアに関して仰っていらした。

 

シェイクスピアは、読解されるために、文学として残したのではなく、
上演されるために、脚本を書いただけなのだと。

 

シェイクスピアの作品、それは文学ではなく、上演のための台本なのだと。

 

上演するために理解できる人間としての心を鍛えることが、理解の第一歩なのだと。

 

ゴールデンウィーク一週間前の土曜日、
右肩の剥離骨折をして、
それでこそ知りえる感覚、
病床の不自由であるという感覚すらも、購入は出来ない。
今回は、存分に味わってしまった。
まだ、痛みはあるが・・・。

 

これを苦痛ととるか、味わえたと喜ぶべきか。

 

正直、なかなか痛みに対して喜べる僕ではないが、

 

平成の最後にこういうチャンスが訪れたとも表現でき、
それは、感謝できている僕には、なっているように思う。

 

そして今、在原業平が感じえたような感覚は、
このゴールデンウィーク中だからこそ、
仕事をいつも通りこなす自分、そして、いつもとは違う聴き方をして下さる方々、
そしていつもとは違う時間の流れの中で、切なさを味わえている僕がいることで、
存分に味わっている。

 

否、ありがたいことに味わえてしまっている。

 

グリーン車から駅に降りると、
いつもは現実に飲み込まれる。ラッシュ時の駅の状態に飲み込まれる。

 

しかし、今週は、駅に降りても、改札口まで普通に、
そのまま歩けてしまっている。
グリーン車から降りても、グリーン車のような快適な移動。

 

そんな快適さの中に、いつもの日常の喧騒に恋焦がれる、もう一人の僕自身。

 

家庭内での紛争のような忙しい朝の時間、それを乗り越えて送る幼稚園、
そんな慌ただしい朝の時間もなく、
幼稚園もない、平和な朝。
その一方で喧騒を恋焦がれたように、朝の慌ただしさを恋しく思う僕自身。

 

このギャップに対する対価というのは、
とてつもないもので、買うことが出来ないものであることは、明らか。

 

これは何十年と経験していなかった感覚かも知れない。

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今日の番組の相棒、高賀茂さんが、
『眞善さん、これは令和以上に、いつものGWとは違いますね!』なんて言ってくる。
そりゃそうだ、剥離骨折の痛みもあるもん。でもでも、でもね、違うのはわかる。

 

これを水越先生ならば、どう過ごせ!と仰ることか。
なんとも、カキツバタなGWの僕である。

 

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