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2019/03/20

危惧する兆候

見事なまでに、近ごろは、物事の判断を、単一的な価値観ばかりで決めつけ過ぎだと感じるのです。
ニュースをみても、『いい』か『悪い』...。
『適切だった』か、『そうでないか』...。
そんな判断ばかり。
何かを批判するには、その尺度だけで、物事判断するのが容易なのでしょう。
それを気にしてニュースを見ると、ホント、事実を伝えるニュースが、
結論として『適切だったか調査するということです』で結ばれている。
そんな限られた2つの尺度でばかり社会を評価する風潮がこのところ強いかなと思う。
本来は、もっと人間らしく,
好き,、嫌い
タイプ、タイプでない、
おいしい、まずい、
美しい、そうは感じない、
愛しい、愛しくない、
とにかく感情ごとに、そうかそうでないかがあっていいはずなのに、
例えば『おいしいは…良い』で、『まずいは…悪い』
と言うような判断になってしまっている。
だからこそ例えば
『髪が短い、ショートカットの女の子が好きでさ、タイプかなー。』
なんてことを言えば、
『それは髪が長い女性に対して、差別に当たる、適切でない!!』
なんて事を言われるようになってしまったり…。
自分の嗜好を話しただけでありながら、
それが勝手に『適切でない!』などと、そう言われるのは
ちゃんちゃらオカシイ。
Pb118303
以前に、演劇の演出に関しても書いたことがあると思うけれど、
いい演劇も悪い演劇というもの…は、存在するまでもなく、
それは、観客の主観での、好きか嫌いかで、それでいいんです。
映画にしても絵画にしても、芸術全般に対する判断で、
善悪はないと思うわけです。
もちろん、道徳的な観念はそこにはあって当然と考えた上で…ですが、
個人が、言葉や作品を『良い、悪い』で判断することは、
あまりに短絡的であると思うのです。
それ以外の尺度というものの存在を否定してしまっては、
それこそ人間が、ゼロかイチかと言うデジタル的な判断のみで、
動かされてしまうことにつながってしまうと思う。
そんなデジタルでできないことを、人間はやり遂げるのであって、
だからこそ非合理的なことも人間的と言う言葉に置き換えることができるわけ。
そもそも人間が生きていると言うこと自体が合理的ではない。
いろいろな感情が存在して、
いろいろな矛盾や、それこそ無駄なことだって、
恋愛には必要だったりもする。
子育てだって、良い悪いではなく、
いろいろな尺度で認めることができなければ、
子供と向き合うなんて、そもそもが無理な話。
子供には子供の理論があって、それは良い悪いではなく、
興味津々と言う原動力によってつき動かされた行動の結果だったりもするのだから。

それは幼いうちに、いろいろな悪いことも経験した上で大人になってから悪いことをしないようにする経験につながっている。
イスラム教の教えではないが、物事には両端があり、その両端が中和しているところに人間がいる。だからこそ片方だけではそのシーソーは成り立たないわけだ。
幼いうちから、良い!だけを認識しかしないから、痛みが分からないこととか、あるのではないだろうか?
政治の世界でも、
適切であったかそうでないかの議論ばかりで、
信念や理念、理想、未来、国を引っ張っていく議論・・・
と言ったようものが少なくなってきてしまっているように思う。
それは野党が見事なまでに
『適切であったかそうでないか議論』ばかりで、
与党に攻め込もうとしていることからも感じる。
適切であったかそうでないかと言うのは、事後の判断であって、
ことを起こす原動力にはなり得ない。
つまりは、そんなことばかり言ってしまっていたら、
何も始まらないし、人間として生きている時間がもったいない・・・
とも言えるんではないだろうか。
価値観の多様性というようなことが、叫ばれているけれど、
実際には逆行している現状を感じ、
それがまた、ラジオから言葉、スタンス、自由さを奪って行っているようにも思われる。
さらには、その現状の危うさを感じない現場というのも、危険だと思う。
幸いにして、僕の現場ではそういう仲間がいないというのが救い。
なんとも人間らしい価値観を失い始めている・・・
そんな昨今だと感じずにはいられない。

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