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2018年5月

2018/05/23

いい病院との遭遇

2010年に引っ越してからというもの、

なかなかいい病院には出会っていなかった。
町田の時は伊藤クリニックなど、かかりつけ医がお決まりで存在していたし、
伊藤先生なんかは、フリスクを処方?してくれちゃったり、
ユーモアまであった。
しかし、川崎に引っ越してきてから、安心して通える・・・
つまりは、体を安心して毎回・・・任せられるお医者さんには出会っていなかった。
昨年夏の急性副鼻腔炎のときでも、何時間も待って、
それで5分ほどの診察とか、
病院に行って、何時間も待って、余計に疲れて体力消耗して、悪化して・・・なんてことの
繰り返しが多かった。
たらいまわしってのもあったし。
まあ、今回、日曜日から体調急変。
高熱がでて、家族にはうつしたくないので、
一人でソファーで寝るようにして・・・
なんてしつつ、市販薬で乗り切れるかと思いきや、
どんどん悪化。
もうこれは、病院レベルだと判断して、
グーグル検索で病院をチョイスしてみよう!となった。
今回の感想、使えるじゃん!グーグル検索!!
近場で検索してみると、
5つ星の病院があるじゃないか!
評判がめっちゃいい。
もう、『なんなんだ!この評価は!!!』ってな興味もあり、
行ってみることに。
夕方である。午後の診察スタートがゆっくりめ。
病院の扉をあけると、長椅子には8名以上の方が並んでおられる。
これ、いつもの調子なら、一時間以上待たされるパターンだぞ!と思っていたら、
初診なので、問診表を記入して、提出すると、すぐさま検尿からと。
ものの何分か、検尿して、トイレを出たら、もう3人しかいない。
そして5分と待たないうちに、名前が呼ばれた。
先生の診察を受けて、インフルエンザのチェックもして、血圧チェックなどなど・・・。
まー、これらがテキパキと、完全にナース、それぞれみなさんとの連携分業体制。
チェックが終わったら、ナースさんに『7分ほどお待ちください、お名前呼ばれますから』
と言われ、待合室へ。
ちょうど7分くらいで名前を呼ばれ、先生のいらっしゃる診察室。
自分の体の現状を、先生が丁寧に説明してくださり、
それに対する対策も説明。
分かりやすくて、とにかく早かった。
8年越しでみつけたかかりつけ医。
ファンになった。いいじゃん、この病院。
疲れない、安心できる、分かりやすい。何より早くて的確。
今度からはここだな。
そして薬局へ。
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へぇー、今って、スイカで支払いできちゃうんだ!
かなり驚いた。
なんか、いい病院に出会えたことでもスッキリ出来てしまった。

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2018/05/08

ルールの必要ない…。

連休明け、その最初の夜・・・。
外は雨模様だけど、人の心も雨模様なんだろうか?

野田氏セクハラルール策定へ

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最近は仕事から帰ってきて、子供の寝る時間に合わせて、一回寝て、それから起きてのこの時間、やっとデスクに向き合う時間になる。(笑)

さてさて、

人間が社会を形成する上で、良い方向に向かっていくためには、罰則があることよりもむしろ教育の方が、あらためて重要だと感じるこの頃。

近頃感じていたと言うわけではないが、なぜ近頃と言う言葉を使うかと言うと、近頃、
とみに罰則の強化など、底辺に合わせた主張なり
制度が目立ってきているからに他ならない。

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つまりは底辺に迎合することで社会全体の引き上げと言うよりも、
むしろ〇〇しなければいいや…
と言う概念を作り出してしまう危険性はないだろうか。

屁理屈を並べなければ、そこに合致しない限りは
無罪放免などと言うようなことを考えだす輩もいるわけである。

こういった罰則を受けるようなケースというものを底辺と考えた場合、その底辺ばかりに目が向いていってしまい、その底辺が基準となることを危惧するばかりである。

本来は、罰則に抵触するであろう底辺というのは、
ごく稀なケースの存在として認識されるべきであって、
社会全体がそこに合わせてしまう制度化してしまうということが、
なんとも情けなく思う次第。

『常識』と言う言葉がある。
しかし『何が常識か』ということを、いちいち議論しようとする傾向もある。
情けないばかりじゃないか。
常識を屁理屈に使う輩もいる。
これまでは『常識=一般的な概念、良識』として考えられていたわけだが、
その常識すらも制度化、数値化することによって、
常識ではなくルールにしようと言う動き。これを危惧する。

幼稚園の子供に、『〇〇をしたらダメだからちゃんとしましょう。』
『〇〇をしたら× ×になってしまうからやめましょう。』
といったようなことを教えている教え方・・・かのように思ってしまう。

本来であるならば、良い方向を目指して教育と言うものや社会があるべき。
ルールだらけの幼稚園は、それこそ敬遠してしまわないだろうか?

そんなところを、ルールによって、その常識を定めてしまうということが、
なんとも底辺に迎合すると言う事えとつながっているんではないかと思うわけ。

交換条件で餌を与えられているような子供たち、
『〇〇したらこれができます』
『〇〇さえしなければ、普通でいられます。』
…と言うようなマイナス側面さえクリアすればそ、
れが常識であるかのような錯覚に陥ってしまうのではないか。

難しい例えではあるが、上昇志向によって新技術の開発などをせず、
クレームが出ないようにするために機能をシンプル化して、
しかもそこでリコールしないようにものづくりをしているような、
守りに入っている自動車メーカーがあるだろうか?

心の上昇志向ではなく、あくまで、心や精神の問題であるにせよ、
クレームが出ないようにリコールが出ないようにして、
何かとルールの策定により、難しい判断から逃れる。
もしかすると責任者の責任逃れなんではないか…
はたまたそれは人間個人の責任逃れにもなるのではないだろうか。

心の上昇志向ではなしに、〇〇さえしなければという常識につながっていってしまうと、
それこそとても寂しい人間社会なんじゃないかな。

まずは、我が家の中から、ルールを設けないでいいような家族にすること。

今、いくつかルールがある。

でも、罰則ではない。あくまでそっち側ではない。

それが定着すれば、良い方向に向かうように、
ルールは撤廃する。

そういうところから、小さな反抗をしてみる。

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2018/05/06

かしわ餅と青い鳥

おはよ。

朝からテーブルには柏餅が置いてある。
僕が小学校入るか入らないかくらいの時、
祖父が会いに来てくれるときは、
かならずや、追分団子と柏餅を、東横のれん街で買って、
そしてお土産にしてきてくれていた。
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こどもの日は、スーパーでも柏餅をみれば、
そんな記憶を昨日のことのように思い出す。
青い鳥を見つける旅をしなさい。
これが祖父の遺言だった。
メーテルリンクの青い鳥を読んでくれたのも、
祖父だった。
冒険が憧れで、それこそ祖父とは、南米のアイガーという山を登る計画を立てていた。
あの頃、ヨットで外国に行く!なんて、冒険の一環として言ってたけど、
それは叶えた。
仲間の力で叶えられた。
アイガーはまだ登っていないが、
青い鳥は捕まえることをしているかっていうと、これは難しい。
なんだか、柏餅をみて、青い鳥をまた読みたくなった。
おもわず、大型本の絵本をポチッと。
読み聞かせしよう。

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