形の無い所から「カタチ」を創り出す。
台本は、文章でしかない。文字の羅列。
いわば、俳優にとっての企画書。
そんな企画書を前に、
「カタチ」にすることを約束する。
もし、カタチに出来なければ、公演は成立しない。
だから、カタチのアイデアがあれば、
興味を持たざるを得なくなり、集まってしまう。
そしてちょっとづつでも、カタチをイメージして、創出してゆく。
今はそんな作業。現在取り組んでいる「幸せの値段」に対してしている。
ラジオもそう。
特集企画を出し合って、何が具体的に「音のカタチ」という
番組パッケージになるのか、探っていく。
そして取材交渉。スケジュール設定、内容設定、進行設定、
素材収録、インタヴュー、収録、編集、送出。などなど。
そのために悩む。話す。意見する。
そして反響、この番組の場合は、あえてハガキで、結果として返ってくる。
ここまでのことをして、「番組」というカタチになって、
「やりました」と初めて言える。
そして、
どれかひとつの作業を「した」と言うばかりでは、何にも意味なさない。
作らなきゃいけない。作る輪に入ってなければいけない。
番組になって、放送できて、
「カタチ」にして始めて意味が生まれる。
このところ、わざわざ呼ばれたり、オフィスで偶然だったり、社長と話す機会が多い。
その度に、「カタチとして落とし込まなきゃ、仕事じゃないから」と表現をされる。
作業として、中間作業を「やりました」ではなく、
「うちの会社で言えば、最後の送出を担当する眞善の口から
何かのカタチを『やりました』と報告されないと、
その中間が仕事を撒き散らすだけで、『仕事をしてない』と一緒。点でしかない。
点と点で線が出来て、それが面になって、そして立方体と言う形。
それを包装紙に包むのが岡田君の仕事だから、点を見て評価しちゃいけないよ」と。
「点は包めないでしょ。」「コンテンツは立方体だから」
重い言葉だったなぁ。
たとえ、僕は中間の作業を見ていたとしても、
僕の口から「やりました」報告が上がる結果がないと評価できない・・・と。
言われてみりゃ、そうなんです。
舞台だってそう。
演出家は、演出という作業を稽古場で「しました」・・・
で仕事の責任を果たしたのではなくて
公演まで、最後の舞台までカンパニーを率いて、
お客さんにみせるとこまで、劇場で舞台が幕を開けてこそ、
初めて「演出しました」と言える。
その作業に全面的に奉仕するのが、俳優の仕事でもある。
僕らが拍手なり、批判なりを受け取って中間作業の演出作業を「しました」が成立する。
僕らが稽古で、演出家の作業を見ていても、教わっても、
公演できなければ、演出家の「やりました」は無意味なんだよね。
カクテルもそう。
シェーカー振って「カクテル作りました」ではなく
カウンター越しのお客様が「美味しい」という感覚を味わってこそ
「カクテル創りました」になるわけ。
なんだよね。