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2008/06/20

スピノザの言葉

スピノザという哲学者が居た。

僕は大学時代、教育学部の授業も受けていたので、頻繁にスピノザの言葉を授業で叩き込まれた。

彼の教えは

「汝、我より哲学を学ぶべからず。哲学することを学べ」

それが10年前、偶然にも細川俊之という俳優からの言葉として、スピノザの先ほどの言葉を引用されたことがあった。

「芝居を学ぶんじゃなくて、芝居することを勉強なんですねぇー」

「演技は学ぶんじゃなくて、演技することを学ぶ、その姿勢ですよ」

なんとなく、今になってようやくわかる言葉でもある。

一人芝居ならまだしも、ほとんどは相手があっての芝居。

相手のとのバランスと言う話を先週、細川俊之さんにしていただいた。

その時、リアルタイムで芝居は変化する。

芝居でなく、芝居することを楽しんでいれば

相手との関係の中で、お互いにより、芝居の安定も生まれる。

つまりエチュードってやつが試される瞬間もある。

演出家は何を望んでいるのか?

それを見抜く力。そこに臨機応変に対応する芝居。

役者が2人になった瞬間、3+3が6でなく

3×3=9という図式になる瞬発力。

誰のための芝居なのか。

役に奉仕する姿勢。自分をひけらかすのではなく、役をさせていただく、役に対する敬意。

役者のために芝居があるのではなく、役のため芝居があって、

役は観客に味わって頂く為にある。それの一端を担当する者が、役者。

芝居することがどういうことか、そこに真摯に向き合うために遊ぶ。

遊びを学ぶのではなく、遊ぶことを学ぶ。すると自分だけの遊びと出会える。

これは楽しいことこの上ない。

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コメント

ちと、難しい言葉の意味。
と言うより私には人生の哲学を語れる程の経験も実行力もない。「あそぶ」と言う言葉にこんな深い意味があるなんてことも考えたこともない。

「嫁」と言う柵に絡まれて身動きが窮屈

昨日、年に一度の、写真倶楽部の一泊旅行から帰ってきました。・・・・鳥海山山麓のブナ林と日本海に沈みゆく太陽と紅く染まった雲と海、・・・ハッセルのシャッター音を響かせながら感動の夕日を銀塩に焼けつけた

楽しい時間は何故か短く感じてしまう。もっと、もっと遊びたい、遊んでいたい、子供の様に・・・

投稿: ecotann | 2008/06/24 23:47

何かを読むことで勉強した気になりがちな私にとっては、耳の痛いお話です。

投稿: k | 2008/06/22 21:08

「芝居を学ぶんじゃなくて、芝居することを勉強なんですねぇー」

「演技は学ぶんじゃなくて、演技することを学ぶ、その姿勢ですよ」

すごく心に残る言葉だなぁと思いました。
これからもっともっと素晴らしい役者さんになると思います(^^)
頑張ってくださいねe(^。^)g_ファイト!!

応援してます☆

投稿: 天使 | 2008/06/21 11:53

心の中に生かされ続ける素敵な言葉の宝物ですね。

そして何よりも「謙虚さを忘れない」ことは、できるようでなかなかできないことだと思います。

願わくば・・・時を経たお二人が同じステージ上で演じられるお姿を拝見してみたいです。

いつも拝聴させていただいているラジオのパーソナリティーの他に、役者としての眞善さんを拝見できるのも着実に近づいてきています。
本当に楽しみです。

体調管理が大変な季節・・・くれぐれもご自愛下さいますようお祈り申し上げます~^^ノ

投稿: 青りんご | 2008/06/21 07:57

経験して学んで行く事、そして自分の中で造る哲学こそが財産でもあり
強く楽しく生きていく為のエネルギーかも知れませんね。
これからの役者としての眞善さんが本当に楽しみです
きっともっともっと大きくなって素晴らしい役者になる事、間違いないですね

投稿: パンジー | 2008/06/20 20:56

いま私の手元には、1988年12月10日、ラフォーレミュージアム原宿で上演された『ラジカル・ガジベリビンバ・システム』の切符の半券が残されています。シティーボーイズ、竹中直人、中村有志、いとうせいこう。当時ノリにノッていた彼らが総出演して、チケット料金が¥2800とは一体なんという安さであるかと、この20年で興行物価が倍になっていることに、まず驚かされます。ちょうどこの頃、大竹まことが『スピノザ』というタイトルの企画物ミニアルバムをリリースしているのですが、まぁ、そんなことはどうでもいいです。だいたい私のコメントは、20年くらい前の記憶を起点に物を語っていることが多く、我ながら、いかに進歩のないことであるかと暗澹たる気持ちにもさせられるのですが、「人間は何か新しいことを経験するのではなく、常に自分自身を再体験する生き物である」ということなので、まあいいや。それにしても面白かったなぁ、ラジカル・ガジベリビンバ。『朝まで生テレビ』とかが流行っていた時代で、シンポジュームの場面なのですが、他のパネリストが発言しているときには滞りなく討論が進行していくのに、なぜか竹中直人が何かをちょっとでも喋ろうとすると、ドンドンドンとドアを叩いて「うるさいよ!」と怒った斉木しげるが出てくるという、のちに「ドアあるところに斉木あり」と呼ばれるまでになったネタとか、作演の宮沢章夫は、ナンシー関をして「宮沢より面白いのは宮沢だけ」といわしめた、まさに天才でしたが、さらに進境が開けて、その後、演劇人としては、なんだか侘び茶の達人のような方になってしまわれましたよ、宮沢さんは。これは、その後の宮沢作品もそうなのですが、まことに申しわけのないことに、私は全体、演劇というもの自体が、その作法を全く知らない茶道のように、未だにもって解らないのです。これはストレートプレイ、ミュージカル、四季、歌舞伎、蜷川、大小の公演に関わらずそうです。これは私の感性が摩滅しているのに他ならないからなのでしょうが、映画だと、そうでもないのです。喜怒哀楽が揺さぶられるようなことがある。ことによったら音楽にダマされて泣いてしまうようなことだってあります。ただ、お芝居だけは、解らない。ときたま本当にオカしなシーンだけはカラカラと笑います。あとのほとんどは、2時間から3時間のあいだ、異様に張りつめた緊張状態の中、やはり何事も解らないままに幕が降りていきます。これが、毎度のことなのです。無間地獄のようで、いい加減、滅入ってきます。私はバカなのでしょうか?昔、ガーデンプレイスでアルトマンの『ショートカッツ』という映画を観てきたときには、ツマらなかったなぁ。まだ若かったから、あんなにツマらない映画、3時間も尺があるのに、仕方なく最後まで観終えましたが、若い頃のほうが忍耐力があった。帰りに、また何か解ったようなスノッブな顔をして映画館を後にしないといけないような雰囲気があって、それにも困らせられたものですが、あの映画を観終えたあとの感じと、よく似ています、現在の、どの観劇後にも抱く、ツマらない、何も感じない、解らないといった不全感は。これは私がプレイヤーでないといったことにも一因があるように思います。私はスポーツの観戦というものを好みません。いかなるスポーツも身につかなかったから、その面白みが解らないのです。反対に学生の頃から何らかのスポーツに触れたことのある人には、どのスポーツも面白く観戦することが可能でしょう。プレイヤーの観点があるからです。これと似た構図が観劇の視点にも存在しているような気がします。私のまだ歳の若い、ある友人は演劇関係の仕事を主に生業としているのですが、これでもかと云わんばかりにノンジャンルの演劇を、乱読という言葉はありますが、その姿はまさしく乱観のごとくであり、私は口にこそ出しませんが、あんなにツマらないものを、そんなに乱れ撃ちのごとくに観まくって、コレクター根性とでも申しましょうか、マニアックにも程がある、と内心では冷笑をしていたのですが、他方では友人の若く瑞々しい感受性が、おっさんの私には羨ましくもあり、ジェラシーの感情もありました。そんな私の邪念をよそに、彼は一つ一つの作品から確実に何かを感得している様子でもあり、心を動かされており、「他人の稽古をよく観る俳優は、その演技も格段に向上します」と茶人の宗匠となった宮沢章夫は語っていますが、まさにその若い友人の姿がそれであり、彼が単なるマニアではなく、他人の稽古を観入るごとくに芝居を観、着実に自身の血肉に変えていたのだと知るにつけ、それは他ならぬ彼自身がプレイヤーであり、プレイヤーとして舞台を観るから面白いのは当たりまえだ。私はといえば更に演劇からの疎外感を深めたのでありました。どうして私には、舞台の面白さが解らないのだろう?剣術は一振りの太刀に宇宙を観、茶道は一椀の中に宇宙を観じるものなのだそうです。これは、あらゆる“道”に通じる道理であり、演劇もこの外ではないのでしょう。演劇も道なのですね。おそらく芝居道のようなものがあるのでしょう。他の演技を要するメディアに比して、舞台はどう考えてもペイしていないように思えてならないのも、その一因です。利益を度外視しても一座を興さざるを得ないといったような、なにか得体の知れない熱情、この自分たちを憑き動かすモノの正体をつきとめるために、今日もどこかで演劇人たちは芝居を構築し、演技をしているようです。それはやはり一間の茶室に宇宙を観ようとする茶会のようです。舞台は茶室です。そして亭主も客も、実は舞台の上にいます。充実と充満、至福と恍惚が、この茶室の中に出現します。モノを観る眼のある人が、観客席からこの空間を観れば、宇宙の味嘗を共にすることも可能でしょう。ただ私には皆目、解らないのです。窓の桟を越して、息をひそめて茶室の内側を覗きこんでいるだけです。

投稿: ファイナル・デスティネーション | 2008/06/20 18:34

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