2023/06/23

無駄を堪能すること

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色々な分野で『合理的』やら
『効率』を目標にしてしまっている
そんな状況に遭遇する。

だけれども、
そもそも、人間が合理的ではない。


落ち葉を掃き掃除。
また、落ち葉はその日の内に、
落ちてくるのに。

病気を治そうと治療に、励む。
どうせ死ぬのに。

いろんな合理的と闘って、
とても効率悪く生きる。

一日の内に何度も何度も掃除する。

なんなら、その日の夜にまとめても。

いやいや、
それでも、落ち葉一つない光景、
それが、気にかけられてる、
『美徳』なわけです。

何度も写される経、
いいじゃん、一回で。

いやいや、
その何度もが、写経の本質かもしれません。

人間が生きる事が、
そもそも矛盾を彷徨う事。
合理的を目指すのって、
生きる事に消極的なんだとも思う。

私は、積極的に生きてます。

無駄の繰り返しばかり。

でも、それは美徳…
信じたいものです。


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2023/01/03

明けましておめでとう御座います。

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2022/11/10

良い塩梅

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どこかで、全ての事柄に、『良い塩梅』というものが存在しているんじゃないかな。それは都市を創り上げる上でも。今日、渋谷の街は、それを超えてしまっていて、人間がハードに合わせていなくてはならない変化を強制しているように感じた。
蛇口からの水の量ひとつにも、そこそこの良い塩梅がある。

一時期、公共のトイレなんかでも、蛇口からの水が勿体無いと感じるほどな水流。新幹線でも。昔はもっとチョロチョロが、新幹線ぽかったのにと。また戻ってきているが、人間を取り囲む全てのことに、『良い塩梅』でいいんじゃないかと。あくまで、人間は人間のままなのだよ。
だから、進化も良い塩梅で。
そう願うが、
僕も毒されもしている…と言えよう。

例えば、僕もTwitterをやりつつも、実は、これは人間にとっての良い塩梅は超えてしまっているもの…なんじゃないかとも感じる。
ラインも、人間的な時間の進み方を超えて強制してるんじゃないかとも。
好きだった渋谷の街を歩きながら、そんな事を感じていた。

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2022/10/26

飲食店に置き換えて…。

なんのこたぁ〜、ない。
素直に、面白い…と思えないままやってる時間を、面白くやりたいだけだ。

飲食店だって、美味しいとは思ってないもの、
それをメニューに載せたり、
提供しないでしょ。

これくらいでいいんじゃない?
とりあえず、時間枠は、埋めてるし…。
なものを流しちゃ、
本来、違うはず。

ちゃんと、
美味しいものを出したいだけさ。


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2022/10/22

時代、ルールの存在感…。

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昭和…夢があった。
なんでも夢だったし、
未来は明るい進化しかないと
感じていた。

平成…夢を実現化出来ると感じ、
その手にする事すらもあった。
しかし、無限大の夢ではなく、
だんだんと、ルールで人を縛らなきゃ、自由が享受出来ない世の中になって来たとも感じた。
ルールがなきゃ、正しく生きられないのだろうか…
そんな狭さも感じ始めた後期。

令和…ルールでばかり人が動く様になり、ルールがなきゃ生きられない人も増える一方だなと…。
社会に決められたルールでなしに、自分の中に、正しい自分のルールはないのかと。
何か有ればルールに依存する。
人の善行すらもルールの上に。

夢見る社会よりも、ルールばかり見ている社会に。

集団の判断でなく、個人の判断は何処へと…。

守るものも増え、利用される側と利用する側が見えてしまう寂しさよ…。

その昔、目を輝かせた時代を、
深夜、
古い宿のひっそりとしたゲームコーナー、それを見て感じた。

#温泉宿
#ゲームコーナー

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2022/10/04

私にまつわるもの、その境界線

悲しい事件が起きた。

 

22歳青年、バイクで47都道府県走破する旅の終わり、自殺予告し川治ダムに飛び込む「最後に日本一周出来て幸せだった、さようなら」

 

彼の生き方にまつわるもの、

それらの多くが、僕の生きている上での大切な存在、

そんな環境を包んでいるものでもある。

僕の愛しい人たちにも関わるもの。

ゆえに、このニュースと事件には衝撃を受けつつ、

正面から向き合わなきゃならないなと…。

 

少なくとも、家族を自死で失っていることは、

それまでの自死に対する自分のどんな想像よりも、

向き合うことを強いてくる。

そして、そこに向き合うことを強いられたのは、

自分だけではなく、同じように残された家族みんなが、

同時に、時として、偶発的に。

するとまた、家族内でそれは伝播するわけで、

乗り越える・・・なんてないと思っている。

 

今更、どうこう言おうと、なにも取り返せない。

でも、イントレランス、はびこっているんだよな。

僕が嫌いなものに、頭でかちがある。

何でもかんでも首突っ込んで、

でも、全身では浸からない。

あくまで頭だけ。

それで、あーだ、こーだ言う奴。

そして自分を情報強者だと思いこんでいる奴。

大っ嫌いだ。

 

でも、

間違いなく、彼は、頭でかちじゃなく、経験した。

いろんなことを、いろんなとこを、経験し、体感した。

そんな彼に好感を持つが、ラストはいただけない。

でも、そこも含めて、彼生き様だったんだろうなと。

彼は、最期、何を考えていたんだろう。

満足だった?それとも、絶望だった?

僕には絶望のようには感じない。

何かの満足感があったんではなかろうかと。

僕の弟もそう。

絶望感の上に、復讐という、それを達成すべき方法を

見つけてしまい、弟は実践した。

しかし、当時のメディアは、強い立場の者の発言しか注目せず、

また、それが事実化のように伝わっていってしまっていた。

当時のメディアや芸能界とは、そんなものだったんだろうなと。

真実とは別のものが、あたかも真相のように。

今の時代ならば、どうにか出来たこととも思うけれど…。

 

最期を想像してみる。

何を達成しようとしたのか?

達成したから、何かの満足感だったのかどうなのか?

最期、川治ダム・・・

僕にも思い入れ深い場所だ。

なぜ、その場所だった?

でも、聞けない。

そこに行って、川治ダムで、考えることをしたいと思う。

なんとか今月中に。

 

想う事、それが供養にもつながるんじゃないかな。

正解はない。

けれど、感じたことを、冷静に行動に。

境界線は、見つけられないなだろう…。

 

 

 

 

 

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2022/09/20

デザイン好き嫌い

美的感覚として、

ボーイング727や737の機首の造形が、まあ、たまらなく好き。

1960年代にデザインされ、それが今でも最新鋭機として使われている、

飛行機の頭のデザイン。

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一方で、787からの機首は、曲線にメリハリがなく、

それはエアバスでも350などはなんか苦手。

ただ、777やその世代になると、

エアバスの330や340の方が、A300と同様のデザインで、

そこに直線と曲線のバランスが好きで、好感を持っているのです。

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まあ、ワイドボディ、機体が大きく断面半径が大径化してしまうと、

単純に拡大デザインにはできないわけで、

コックピットガラスが相対的に小さくなるので、ずんぐりデザインになりやすいというのも

そこは理解できている。

平面ガラスのフロントガラスを、どう、流線形に溶け込ませ、メリハリをつけるか。

でも、エアバスの操縦桿、サイドスティックは、生理的に受け付けない理念。

そしてエアバス350のタヌキ顔は、もうダメダメ。

350の飛ぶ空路なら、JALでなく、ANAを使いたいな。

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まあ、こんなこと書いても、どうにもならないのだけど、

記しておくことで、いつか未来の僕が『そうだった!』と思えるように。

 

そういえば、飲んだら説教したいことがあったんだった。

どうでもいいことを、深く考えてもいい。

けれど、それで否定的になっちゃいけないと。

その説教すらも、どうでもいいことなんだけど。

 

明日は火曜BEAT、テーマが『取り戻したい』

年齢?

でも、僕は1973年生まれで良かったと思っている。

その上で経験値があるから、取り戻したい・・・なんて思ってしまうわけで、

生まれた年を後の世界にしたら、

それはそれで、取り戻せずに生きているんだろうなと。

 

今、コンテンツの企画を複数抱えているけれど、

出演を想定している相手に

直接相談が出来るチャンスが、作れないのがもどかしいところ。

さ、それもデザイン、仕事の進め方のデザインをしなければと・・・

デザイン・・・実に楽しい作業でもある。

 

 

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2022/09/12

集団による意思決定の危うさ

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社会は、一人一人の集合体。

その集合体を、また切り分け、
一人一人に戻した時、
集団の意志決定により、
個々が歪になる事もあり得るのではなかろうか。

そして個々が立ち行かなくなる場合も。

明らかに、個々においての環境は
緩いものになってしまう可能性も

どの世代においても、
上の世代を見てきている。

日本の高度成長期、
色々な不満はありつつも、
成長を成し遂げた。

そこを見てきて、さらに良くしようと、
個々が理想を描きつつ、個々の権利も
欲した時に、集団にフィードバック。
実際には、実現不可能な夢になってしまう事もあるだろう。

例えば、色々な要求を飲み込み過ぎて、
ひとつの車を開発した場合に、
結果、出来上がるものは、
商品力のないものになり得るという事。

特化して個性ある、
競争力のある商品から遠ざかってしまう。

集団で意思決定した時に、
ダイバーズウォッチは、出来上がらない。

どこかで、『もっと軽く!』なんて
意見もあることだろうからね。

ジムニーだって、ランクルだって生まれない。

多様性が叫ばれる中で、
その多様性を、意見を取り入れる事で、
逆に認める事が難しくなる結果を
招いているのではないだろうか。

意思決定する際に、
取り入れるばかりで、満足してしまい、
結果、多様性の尊重とは無縁な社会。
それが出来上がってしまう。

意見を受け入れるのでなしに、
結果を認めることが、
本当の多様性の存在意義。

『その道』というのがある。

その道は、その道に任せておけばよいのだ。

その道の意見も、あの道の意見も取り入れて、ひとつの結果の社会を作り出そうとする事で、その意志決定は、強固なものとなってしまい、不都合なルールばかりの社会に。誰得でもない、
でも、『意見は取り入れたのだから』
これを免罪符に、
集団意思決定のルールばかりが
強くなってしまい、
それぞれの『その道』が弱くなってしまう。

教育でも、国家としても、
弱い成果しか生まれなくなってしまう。

なんだか漠然と今の日本の弱さは、
そんな所から来てしまっているのではないかと。

911当時、
アメリカ国家中枢は、
数々のルールの中で、
それまでの集団意思決定の結果により、
意志決定が出来なかったと検証されている。

日本はどうしたら、強くなれるのか。

まずは、教育という未来を作るための今、
それを少しずつでも、
集団から個を考えた上でのものに
して行く事なんではないかと思われる。

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2022/08/21

子供の言う『すごい昔』

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宇宙から見たら、
その計り知れない規模からすると、
私の時間など、
ほんの一瞬の出来事。

しかし、その一瞬は、
深く、喜怒哀楽あり、
当人にとっては、大きなもの。

大人の僕からすると、
子供の言う
『すごい昔』…なんてさ、『この前』

だけど、すごい昔なんだと。

本人にとっては、
大変な事を経験してきた時間が、
それまでの全人生の中での、
パーセンテージは大きい。

すごい昔は、すごい昔として、
話を聞いて行くことが、
子供に対する真摯な姿勢だと思う。

1人1人、相手の立場に立って…。

ラジオでも、話し手として、
気をつけている部分だが、

一方で、聞き手であるリスナーが、
そうでない場合とある。

勝手に、全てを、自分の世界の価値観のみに置き換えて、全力で批判してこられる場合も。

いやいや、そう言うコト言ってるんじゃなくてさぁ〜…と言いたくなってしまう場合だってある。

争点が違っていたり、
はたまた、例え話に噛みつかれても、
それは、皮肉での言葉…だと言うコト、
わかってくれないかなぁ…などなど。

同じことを言ってるのに、皮肉に噛みつかれて、同じ意識と思いなのに、
なんで〜!!
となったり。

さ、言葉の『すごい昔』
に、全力で
『それは去年の事で1年も経ってないよ!』
は、それこそ、大人気ない。

5歳の子が言ってりゃ、
人生の5分の1の時間ほど前。

我々からすりゃ、10年前は、
十分に昔じゃないか。

相手の立場に立って、
言葉を理解すること、

それが出来てこそ、
オトナです。

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2022/08/17

腕時計を好きな理由

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私は、SEIKOとOrientの時計が好き。
兄弟会社でもあり、
もともと、セイコーに部品を供給していたオリエントが、自分のとこでも時計を
創るようににり、
今や、セイコーの中のオリエント…。

閑話休題。

時計には、

ハートがあります。

例えば、この文字盤に表記された
『23Jewels』
この文字。
23個の宝石。
それが、
この時計の内部には使われていて、
そして、裏側のスケルトンから覗く、
ピンクダイヤ。
そのうちの1つで、これが心臓。

この時計の心臓なのです。

この機構を反対側にセットして、
表の文字盤から、
この心臓にあたる宝石、
それを見えるように、
オープンにしたもの、
それが、時計の
『OpenHeart』

オープンハートは、
Tiffanyだけの専売特許ではないのです。

僕は、オープンハートの時計、
それは持っておらず、
裏側のスケルトンから覗く心臓の宝石。
それをチラ見するくらいですが、
満足です。

腕元にこの時計がある時に、
その心臓が、自分の動きに呼応して、
時計を動かし、時を刻んでくれている…
そんな、あくまで現実を想像し、
幸せに浸るのです。

自動巻きの時計ならではの、
満足感。

そりゃ、クォーツ時計には、
正確さでは敵わないかもしれませんが、
日々、時間…という概念を意識すること、
それをさせてくれ、
時計を時刻に合わせる…という作業を
楽しませてくれます。

そのための、
23Jewels…という表記。
このとけのプライドを感じます。

#SEIKO
#szsb021

そして、僕が腕時計、
SEIKOに思い入れがある
理由のひとつに、
1999年、
ミュージカル
『リトルナイトミュージック』
このヘンリック役をやった時、
父親役でもあった
細川俊之さんに
『これから歳を重ねていくのであるから、30代までは、
年上の人に時計をプレゼントしてもらいなさい。
そして、いつか一人前になったら、プレゼントしてあげなさい。それが、時を歩むことを実感する事ですから…』と。

そして、僕の誕生日に、
一緒に大阪の百貨店に買いに行った。
SEIKO LUKIAのブルー文字盤の時計だった。
だから、自分が40代になり、
タッグを組んだ信頼する若手ディレクターにも、僕は出会って彼の最初の誕生日には、SEIKOの時計をプレゼントする事から始まった。

これが、歩むことなんだろうなと。
今や、自分で大切な時計達を楽しめるようになっている。

そろこそが、嬉しい瞬間でもある。 Image2_20220817030501Image3_20220817030501Image4_20220817030501

 

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2022/08/16

今日も動き続けてくれ、ありがとう。

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2022/08/10

『最高』の安売りはしない

日々の言葉の中で、
『最高』を連発する人もいる。

けれど、最高とは、
もっとも、素晴らしい…こと、
もっとも高みを極めている何かである。

だから、そう簡単には僕には、使えない言葉であり、使わない言葉。
番組でも、さような比喩、表現は、ほとんどしない。

最高が、最高ではなく、ベターに近いニュアンスになってしまうのが嫌なのだ。

岡田眞善の言う『最高』は、この程度か…になるか、岡田眞善が言うならば、
それは凄い…これ以上はない!となるか。

僕は、決して『最高』と言う言葉の安売りはしない。

最高…と言えば、それは相手は喜ぶだろう。けれども、正直でありたい。
他の人に伝える事も
仕事としての立場である以上、
相手だけではなく、
その言葉を知った人にもれなく、
『最高』であると認められ、
初めて、言葉を仕事にしている人間の
言葉の重みを認識して頂けると…。
そう思うからだ。

現時点での、『最高』には使うこともあるかもしれないが、それでも、私には、
抵抗があり、
死ぬ時に、あの僕が使った
『最高』は、唯一だったなと、
自信を持って、責任を持って死にたい。

だから、なかなか使わない。

『素晴らしい』を『最高』に置き換えて
表現する人が、いかに多い事か…。

最高!って言いたい瞬間もあるが、
グッと堪えて、冷静になる。

最高に裏切られた経験だってある。

だからこそ、冷静になる。

でも、決して
『最高』を言わないわけではないからね。

ただ、安易に使いたくないのだ。

そして、最高を、いとも簡単に受け取ってしまう人も多い。

最高は、とっておき…のために、
とっておこうよ。

ね。

そうしたい僕が、ここに居ます。

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2022/08/07

原動力となる人

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色々な原動力があると思う。

それは、維持する原動力だったり、
守る原動力だったり。

しかし、無鉄砲になれる原動力というのもあるかも知れない。

世の中には、人を突き動かす、
様々な原動力がある。

それが、モノだったり、環境だったり、
お金だったり…。

モノなどであれば、
それは手に入れば、
モチベーションを上げてくれるか、
さらには、愛おしく日々を過ごせるか、
期待はずれでなければ、
その関係値は持続できる。

まあ、僕の場合、
万年筆や、時計などは、数が増えれば、
同時に使う事はないわけで、
その内のひとつへの比重が、どうしても
軽くなるのが、パラドックスでもあるが…。


さて、原動力が『人』という場合、
それもあるだろう。

憧れだったり、
もしくはその存在自体が、
なんとも、説明つかない衝動を与えて
くれる何かであったり。

その時に、迎合するのか、
それとも、自然体であるかの違いも大きい。

迎合の場合は、それはいつか、破綻する。
自然体であるならば、そこには無理はなく、破綻はしない。

迎合ではなく、自然体でいること。
それが、この先を決める葛藤となる
側面でもある。

そして、必然と環境により影響を受けるのが人間だからこそ、
自分を俯瞰から見られるのかも、
そんな時を持つことも大切なんだと思う。

バイクで東京ゲートブリッジを渡る時、
東京を遠目に俯瞰から見る事が出来る。

そんな時に、自然体で思考し、
迎合か否かを俯瞰から覗く。

東京で起こるニュース、
それが、ちっぽけであり、
自分には関係のない事なんだと
思い知る。

原動力と遭遇し、それを見つける感覚。
鍛えるものではないが、
認識する素直さは持ち続けたいものだと思う。

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2022/07/31

良い…と評される行いを…。

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小学校時代の恩師、
小宮路先生の言葉は、
今も大切で、心に響いたまま。


『本当の偉大さの標準とは何だろうか』

E・G・ホワイトは、「神は人を、その富や教育や地位によっては評価されない。
神は人の心の態度を見られる。
品性の美しさを評価される。
神のみ国で偉い者となるためには、謙遜で単純な信仰と、純粋な愛を持つ小さな子どものようでなければならない」と言っている。

 私たちの社会は、前進したいならば、ただただ上に向かって進むのみ!という示唆に囲まれている。

頂点を極める!
脚光を浴びる!
記録を破る!

これらは確かに人々の注目を集め、新聞・テレビの一面を飾り、お金と名声という報酬を私たちに与えてくれる。

この大きな誘惑に、多くの人が引き込まれてしまっているのである。

と…。 

玉川の教えでもあるわけだが、

良い行い…を自分がした事…
それをひけらかす奴は、
私は嫌いだ。

清掃をした…とか、
ボランティアで、わざわざ、
あーした、こーしたetc。

そんなのは、私は黙ってやる。

日常からやる。

特別視することすらが、
いやらしい…と感じる。

ひけらかした瞬間から、目的が
違ってしまうと感じるのは、
私だけではないだろう。

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2022/07/28

絶対評価と相対評価



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小学校の子供への評価。 そこには絶対評価と相対評価という ベクトルがある。 おそらく、年齢を重ねるにつけ、 相対評価が一般的になるものの、 小学校段階では、 絶対評価基準で通信簿が形成されるべきと思っている。 大人になって、営業職ならば、もうこれは相対評価になるわけだが、 それ以前や、研究職の場合は、 絶対評価という基準でなければ、 個性や独自性はスポイルされてしまう傾向にあると思う。 絶対評価とは、 その個に対する絶対的な評価であり、 その子が、これまでに比較してどんだけ頑張ったか、比較せずとも、 そこに頑張りがあったか…。 これを評価する尺度。 対して相対評価とは、 同じレベルの…つまり同学年の中で、 周りの平均を出して、評価をつくるもの。 評価としては、出し易い、導きやすい利点がある。 しかし、その評価の価値観は、一元化されたもので、独自性は皆無だ。 本人にとって、どんな努力があったのか、 何が成長したのか、 何に取り組んだのか。 学校だけでは見えてこない側面もあるだろう。 そりゃ、先生も、絶対評価の視点で評価して頂きたいものだが、 親こそは、絶対評価をし易い存在でもある。 そんな視点で、通信簿を見て欲しい。 正すところは、的確に。 伸びた所はちゃんと評価する。 そうであって欲しいなと。 願うばかり。


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2022/06/09

検索履歴

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我が家のGoogleHomeと同期しているため、『OK.Google!』でYou Tube検索したものが、僕の検索履歴に…。
我が家の子供たち、いったい何を調べてたんだ!!(笑)
カッパえびせんに、興味を持ってる模様だが…。

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2022/06/08

宇都宮線…自殺を立ち止まり考える

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今日の仕事帰りの列車、
運行中に突然停止した。
つい先ほど通り過ぎた駅で、
人身事故とアナウンス。

宇都宮線、止まったままだ。

人身事故って、単なる『事故』じゃない。
自殺と言う現実がある。

自殺に関しては、いくら深く考えようとも、普通は越えない壁を越えてしまっている本人の思考によるものだから、
周りは察知するのも難しい。
それが現実。

内戦してる地域の死者数よりも、日本は超えてしまってる

その数年間20,000人以上。
交通事故防止、交通事故者数を食い止める運動は、全国的だが、自殺に関しては、
そこまで徹底されていないと思う。

だけど、そうだろう。

自殺そのものに対する議論は不毛であるとも感じる。

私が弟を失った時、20年前、
あの朝、何が正解なのかを
探そうとしたけれど、

その後、長い時間を通して感じるのは、
『悩まないで』の言葉によって
悩まないようでいられてしまうならば、
逆に人間ではない思う。
そして、一方で、
そこに
『悩まないで』
と声かけしてしまうことこそ、
向き合ってないとも言うべき事象。

『誰かに相談』
できる状況なら、すでにしてるだろう。

その相談する事に、プライドだってある。

生きる尊厳だ。それこそが。

そう言うことを、安易に提言していることこそ、

本質を見ずに、深く考えもせず…
ゆえに、相談できるはずもない。

根本は、我々では考えのつかない領域の思考まで考えさせる状況。

どうすれば、それを打破できるのか。

答えはないし、一人一人違うことだろう。

しかし、
優しい言葉をかけるのは、違う。

それは、本当に優しい?

本当に優しいとはどう言うことか。

一緒に泣く。
一緒にとことん。

それが出来た上に出てきた言葉でないと。

列車は止まったまま…
疲れたビジネスマンばかりの車両に、
アナウンスが流れるたびに、
重苦しい空気。
大変なんだよね。みんな。

こう言う時に能天気に振る舞えてしまうような人にはなりたくない。

そして、重苦しい『フリ』の人はもっと苦手だ。

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2022/03/24

三年雪組、担任、大山剛先生


昭和57年、4月、私は玉川学園小学部で三年生になり、
雪組になった。
担任は大山剛先生。

専門は体育の先生で、見た目とっても若く、
比較的、薄いブルーのノースリーブのパーカーをお召しになっている・・・
という出立ちが多かった。
それは、下がTシャツでも、ワイシャツにネクタイでも。
ブルー系アーガイルのニットのベストも多かったかな。


三年生になる前の、
3月2日、雪の日だった。
その日に、とにかく大好きだった祖父を失っていた私は、
春休みは楽しいはずもなく、
毎日が沈んで、涙することも多かった日々だった。

三年生であろうと、新学年であろうと、
とにかくナーバスになっていた。
学校が、新たに始まるウキウキ感などといったものは無縁。
ただ、小川中央のバス停からバスに乗り、
つくし野駅から田園都市線に乗り長津田まで、
長津田から横浜戦にい乗り換え、町田まで。
町田から、小田急線の乗り換え、玉川学園前まで。
玉川学園前の駅から歩いて10分ほどだろうか、
小学部まで向かっていた。喪失感と共に、学校に。


新しいクラス・・・一番最初、グランドでの全校朝会が終わって、
教室に戻り挨拶・・・という流れ・・・
かと思いきや、その前に、

いきなり大山先生の指示で、雪組は、
教室に行くその前に、
校舎前の大きなヒマラヤ杉の周りで、
大山先生が一人、鬼役になり、
鬼ごっこで遊んだ。

先生がマジな全速力で追いかけてくるので、必死に逃げたが、
合谷君以外、
ほとんどの生徒が大山先生に捕まった。
汗だくになって真剣に遊んでから、教室へ行き、自己紹介などなど。
この頃には、ナーバスな気持ちを忘れていた。
朝の喪失感は消え去っていた。

マジ鬼ごっこの賜物。

三年雪組。
その教室に入った時の事を、鮮明に覚えている。

二、三年生が一緒になった細長い平家の校舎の三段の階段を上がって、
建物の構造的に一区切り、
ここから、三年生のエリア!と言う、校舎の中ほどに、
三年雪組の教室はあった。

その教室の記憶はいまでも鮮明だ。

教室後方、右側の廊下と反対側には、タイヤが4本積み重なっていた。
子供的に言えば、かなりギザギザなタイヤ。

それまで、タイヤは車に付いているものであって、単体で4つ見るのは初めて。
もう男子は興味津々。
1番最初の注意で、そのタイヤで遊んだら怪我するから。ダメ!
そして、そのタイヤは先生の宝物だから、イタズラするな!といわれた。

それは、先生の車、スカイブルーのファミリアと言うクルマの予備のタイヤで、

『そのクルマでは、ユーミンをかけるんだ。そうするとデートが成功するんだ。』
『ドアは、運転席の鍵を最初に開けたら野暮。いいか、
助手席から鍵を開けてー、
ドアを開いて女の子を座らしてあげれば、カッコいいでしょー!』

もう、今まで教わったことのない情報、話題に、それまでの先生とも違う、カッコよさみたいなもの、そして憧れを感じ始めた。

そんな話は、初めて聞くもの。

男の大人の人は、すごいな〜!と。
つまり、『先生』よりもまず、
『男の大人の人』だった。

始業式当日、家に帰って母に話したのは、
新しいクラスでは、教室にタイヤがある事、あと、スキー板もあること、
そして、怒ったら、玉川学園で1番怖い先生なんだって!という報告をしたと思う。

しかし、その報告は、祖父の他界を忘れさせてくれちゃうくらいのもので、
どれくらいの大声で怒るのか、初日に実演してくれたので、
ヤッバイぞ〜!と言う感覚もどこかにあった。

クラスについていくこと、先生に目を付けられないようにすることで
毎日が、とにかく速い流れで過ぎていった。


そんな新しいクラスでの時間、春の運動会、
小学部体育祭がすぐだった。

それまでの私は、
正直、体育という授業は、あまり好きじゃなかった。
走るのも遅い…はずだし、
嫌だなぁ…体操も華奢な僕は好きではなかった。
まあ、マスゲームは、スッゴく楽しいけれど…
なんて、控え目な私・・・なわけだったが、
意外な事がおこった。

そんな春の運動会、体育祭までのひと月あまりを
振り返ると…。

大山先生は、
遊びの時間に僕らが夢中になっちゃう仕掛けを作ってくれていた。
縄跳びでも、進級制度のカードを作ってくれて、
知らない言葉のカードにすら興味を持たざるを得ない状況。

なんだ?ビギナーって?
なんだ?エキスパートって?
プロフェッショナル?
スーパープロフェッショナル?
12段階くらいに分けられていたカードは、達成する度に、スタンプを押して貰える。
なんだかんだ、スタンプを押してもらいたくて、雪組みんなが、昼休みとか、縄跳びとか、
けん玉とか、鉄棒とか、がんばっちゃう感じ。
僕も、ランクアップがしたくて、なんだかかんだ縄跳びやっちゃってた。
すると、エキスパートにいち早く到達したのが、クラスでも合谷くんと僕だった。

今にして思えば、明確なランクアップの基準はなかったのかも知れない。
相対評価でなく、絶対評価。

そんな話をして下さった記憶。
大山先生は、

『誰かと比べるんじゃなくて、その人、一人一人を評価する』
それが絶対評価というものなんだと。
そして、それが玉川学園なんだと。
教えてくださった。

さて、私は、というと、縄跳びはなんとなく・・・出来てしまっていたが、

まさか、クラス1体育が得意な合谷くんと、カードのランクが並ぶなんて…。
僕には信じられない状況だったが、嬉しかった。

とにかく、みんなを、ランクアップするたび、
一人一人、褒めまくってくれていた。

これ、誤解のないようにすると、
決して『先生に褒められた』
ではなく、『大人の男の人に褒められた』な感覚が、嬉しくて、
なんだか、社会に認められたかのような錯覚・・・覚えたのだった。

先生に生徒として褒められた…のではなしに、なんか、
社会に認められ、大人の人に褒められた…感覚。
つまりは、どこかで子供扱いしないで、導いてくれる先生だった。

『え、僕、得意なことがあったなんて・・・』
自分でも不思議だった。

そして、春の運動会は、新しいクラスになって、ひと月でやってきた。

赤組、白組、青組、きいろ組、対抗のリレー選手を決める徒競走。
朝礼のあとに学年であった時、
ふと、大山先生が、
『岡田は3位以内だな』
と呟いてくれちゃった。

そんな事、夢にも思わない僕だったが、

大山先生がそういうなら、そうなの?

と思いつつ、命一杯、走った。
縄跳びの要領で、踵を一切つけずに、爪先だけで、指先までピンっと伸ばして、
ただただ、自分が鹿になった気持ちで、
自分はまたスタンプもらえるかも!
なんて気持ちで走っていたら、そこで一着。
最終で速かったグループで走っても、一着。

みんなに驚かれた。
同じクラスの家田君に、『サイボーグ009みたいだった!』
『加速装置がついてるみたいだった!!!!!』
と言われたこと、鮮明に覚えている。

合谷くんと2人、リレーの選手になった。
もう、信じられなかった。

縄跳びエリート?の二人がリレー選手。

母だって、信じられないくらい驚いていたけど、喜んでくれた。

体育祭のリレー、優勝。

自分でも不思議で、初めて、『突破する…』
と言うことを味わった経験だった。

大山先生のささやきから・・・いや、
縄跳びの時から始まっていた結果なのかもしれない。

春の運動会が終わったころには、
大山先生は、こっわいけど、他のクラスに自慢したい先生で、
そんな気持ちを誰もが持っていたと思う。

先生であり、兄貴であり、大人の男の人。

夏休み前の暑い日には、
大山先生の命令で、学級委員二人が指示を受け、
僕らが授業中に、
歩いて往復20分かけて、
学外のオダキューOXというスーパーまで買い物に行かされた。

授業中に出かけた学級委員二人が帰ってくると、
実は、大山先生の提案で、
内緒で、アイスキャンディーをみんなの分買ってきてくれてていて、
クラスみんなで内緒で食べたりもした。
あれは、私のアイスキャンディー史上、
最高の味わいだった。

もちらん、大山先生のポケットマネーでである。

このクラスは
なんて特別なクラス、
三年雪組なんだ!

嬉しい時間が多かった。

しかし、だ。
正直、厳しかった面の方が、記憶には多い。
クラスメイト、みんながそうだったと思う。

あ、思い出した。
梅雨に入り、廊下が滑りやすい時期。
私が宿題忘れてくれば、
怒鳴られて、ほっぺが真っ赤になるレベルで
一発ひっぱたかれて、廊下に立たされた。

でも、実は私は、立たされている間、
上履きのゴム素材と廊下の素材の滑りやすさの音の不思議を楽しんでいた。
あー、鮮明に覚えている一秒一秒。

トイレ掃除の時にはカネヨクレンザーを撒いてドリフごっこしたりして、
それでも怒られた。
サンポールの空き容器は隠してあり、水鉄砲のようにして遊ぶのが常だった。

ほぼ、すべての男子が、引っ叩かれた。(笑)

三年雪組、大山先生のクラスでは、

クラスの一人ひとりが、何らかの役目や、キャラクター担当という
『こいつが、専門家!』
というような役割を担っていた。

柳原君なんて、掃除の時の焼却炉の専門家みたいだった。
とにかく、何かしらの分野で、
『あれは、このクラスであいつがトップ!』
というキャラクターを作ってくれていた。

秋、サツマイモを収穫したら、
それをクラスで、内緒で焚火をやって、焼き芋に。
そんな時は、大山先生がご指名!
掃除の時間の焼却炉担当、柳原君の出番だったりして、
焚き火の専門家かのような役割で、焼き芋は見事な出来だった!

太田みちこさんは、
草刈り、鎌の使い方が見事で、
先生にほめられていたなぁ。
だから、砥石で鎌を研ぐとき、
私は太田さんに質問をした。
そしたら、お料理がお家でも好きで、
包丁の研ぎ方をお母様に教わったんだ・・・と話してくれて、
そりゃー、刃物、鎌、草刈りプロフェッショナルだわ・・・と納得した記憶。

とにかく、なんかひとつ、こいつはコレ!ってのがあった。

そんなのを、先生は作ってくれていたのかもしれない。
いや、そうだろう。

大山先生には、よく引っ叩かれたし、
あれは、今でも本気だと思うレベルで殴られもした。

だけれど、心を殴られていたのではなく、あくまで身体。
心が倒れないように支えながら、その平手打ちは身体が吹っ飛ぶほど。
痛かったけれども、心は倒れはしなかった。

きちっと、支えながら殴ってくれていた。
身体を通して、心まで届く教えを、必死に伝えてくれていた。

今にして思えば、言い訳した時だったと思う。
引っ叩かれたりしたのは。

宿題を忘れた・・・だと叱られる。
宿題はしましたが、持ってくるのを忘れました・・・殴られる。

そんな違いがあったと思う。

嘘をつくか、言い訳をしたとき。

そうでない場合、叱られる時は拳をゲンコツにして、
こめかみグリグリ。

竹製の1メートル物差しで、フルスイングお尻パッチン。

あれも痛かったが、どこかでクラスのエンターテイメントにもなっていたから、
みんなの前で恥をかく・・・ではなく
その儀式が終われば、
みんなに『どれくらい痛かった?』とか
女子からは『大丈夫?死ぬくらい痛かったの??』
というような、質問を受ける主役にすら、なれるものだった。

殴られても、引っ叩かれても、
クラスの中で、クラスメイトから軽蔑されるようなことはなく、
『対、担任教師』という価値観で、仲間意識がクラスにあった。

なにより、愛情があることを
やられた本人が理解できる何かがあった。

手を差し伸べながら、引っ叩く。
心が倒れないように。
心支えつつ、殴る。

その原点が、新学期の一番最初の、
本気にならざるを得ない
『対先生』の鬼ごっこだったのかもしれない。

先生は本気で向かい合うよ!があった。

楽しい・・・ということを、
当時リアルタイムに、特に感じていたわけではなく、
毎日が、速く過ぎて行く時間だった。
今にして思えば、それは楽しかったからだろう。

小学三年生で、リアルタイムに、
『この先生は心に残る!』なんてはずは、
そりゃないわけだけど、
大山先生のことは、私は四年生になっても、五年生になっても、六年生になっても、
すごく意識なさざるを得ない先生だった。

さて、玉川学園では、
小学六年生で卒業前に、原稿用紙100枚以上という基準で、
自叙伝を書かされる。

まあ、色々と書いたが、実は小学三年生での出来事や、
思い出は、サラッとしか書かなかった。

これにはハッキリとした理由がある。

それは、リアルタイムな、現実的当時に、
まだ、その小学校に通っている現役小学生として、
小学3年生時代は、
『内緒にせねばならない事』
でもあったと、勝手に思っていたから。

アイスキャンディーはじめ、焼き芋、
授業中にインスタントラーメン作り、
水の上に油絵具を浮かせて作った、マーブル製作、などなど。
とにかく特別なことがいっぱいだったから、

小学6年生の私は、3年前の出来事でも、
担任の小山内先生や
国語の佐伯先生にはバレてはならない!
との意識が働いていたのかも知れない。
リアルタイムなら、当然の意識であったはず。

なんだか、小学校で教わること以上のことを、
小学三年生では経験した感覚でいたから、

あれは、あのクラスの中で完結していなきゃいけないんじゃないかと。(笑)

でも、書けば、山ほど書ける内容ばかりで、あえてライトに書いていた。
だって、40年経った、今ですら、
こんな書けてしまう、経験がいっぱいの一年間だったわけだから。

さて、時は今。

昨年から、私が川崎市で、川崎市立玉川小学校の寺子屋の先生をやることになって、
研修カリキュラムに参加した時期、
いろいろな事を考えさせられた。

いつから大人で、いつから子供・・・なのか?

研修を受けている仲間は、
『子供は・・・』
『子供たちは・・・』

この言葉をよく使って発表なりをしていた。

でも、そんな発表や、講習、セッションなどという時間を、
俯瞰で見てしまた瞬間に、
やってることは、僕らも子供と変わらない授業だなと・・・(笑)

いっしょじゃん。今も昔も。
自分の今と、小学生の自分も。

なんで、いつからいつまでを子供として
子供を子ども扱いするの?

成人・・・とは違う基準だが、
答えはないだろう。

そんな時に、大山先生の事を考えていた。

子供と大人・・・ではなく

人と人。

それで接する時間だったんじゃないのかなと。

大山先生みたいな先生を、寺子屋でやりたいと。
そう思った。

教える・・・なんてことじゃなくて、
一緒の時間を一緒に歩んで、
一緒に考える
一緒に楽しむ。
一緒に悲しむ。
一緒に学ぶ。

それぞれの立場で。

だから、大人の男の人・・・を大山先生に感じた・・・のではないかなと。

そして、今、同じように小学生に接している私がいる。


2019年、年末を前にして、もう一人、小学生時代に影響を受けた、
音楽の小宮路先生が天国へ旅立たれた。
その先生に最後、病院にお見舞いに訪れた教え子は、私だったと。
その先生の万年筆での仕事ぶりは、今の私に息づいている。

大山先生の教えも、今の私に息づいている。
ラジオでの皮肉、ブラックユーモアは、
大山先生との出会いがあったからに他ならない。
きれいごとじゃなく、本音を交えて。

今、体罰は問題になる。
絶対にいけないと思う。
けれども、大山先生には、体罰なんてものは無縁だった。
体罰と教育は、明らかに違う。
何が違うか??

引っ叩く、殴る。
引っ叩かれる、殴られる。
それは身体的なもの。
それを、心までやってしまって、愛がないこと、それが
今言われる、体罰なのだと思う私がいる。

大山先生は
心を引き寄せながら。
支えながら。
先生の目に、涙ぐむ瞳を見つけて、
真っ赤な目で目力、マックスパワー引っ叩かれる。
それがなんのためなのか?
それ以上に愛情があること。
感じていた。

それを、生徒が実感できること。
実感している事。

はたから見た行為自体は似ていても、
全く違う。

心が倒れないようにしつつ、引っ叩く。
気持ちが塞がってしまわないように、怒鳴る。
それで、解放し、見事完結してくれる。

誰一人、クラスから孤立させないように、
そのための、実践だったと、

僕らが、その時、理解できていた。
嫌いになること、あるはずもなかった。

イジメ???
無理無理。そんなの出来やしない。
目の前に担任の大山先生という最大の仮想敵?
を前にしては、心の中に思いつきもしない。


閑話休題。

あ、やっと書けたんではないだろうか。
小学6年生の時に書いた自叙伝、当時書けなかった部分、
書かなかった、秘密のパート、
大山っ先生との時間について、
40年たって、ようやく書かなかった部分が、書かれて
あの、自叙伝は、完成した。
と、ようやく言えるのだろうか・・・

40年という時間を経てもなお、
常に憧れの意識は失われていない。

だから、大山先生は、大好きな先生なのである。
いつまでも、追いつけない『先生』である。

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2022/03/22

自宅学習の本質

昨年から、川崎市の小学校の現場で、
寺子屋の先生として、子供達に接していると、子供の学びに関して、
現場と家庭と、その両方の感覚を肌で感じ取る事が出来ている。

そんな立場ゆえ、
学校の先生方と話していると、

おそらく、先生同士で話している場合というのは

触れないようにしている領域の話題があるのだなと察する。

でも、

私という異分子がいることで、

導火線の役割として存在し、

普段は教師同士の会話では、そこに上げない本音として、

『親御さんに関する話題』熱く語られる場合がある。

これは興味深い。

先生方が切り出したのは、

果たして、何を目的に家庭での勉強をさせているのか?

親御さんが『子供が学ぶため』に教えている家庭というのが、
意外にも少ないのではないかと・・・

つまりは、クラスという枠組みの中で、

親の立場として、恥をかきたくない・・・ということが目的になっている、

子供の学びとは別のところに、家庭での学習の目的がありそうだということ、

これは異口同音な意見としてあるのだと気づかされる。

覚えるためだから、家庭ではテストはしなくていいものの、

テストのためのテストが、家庭で行われている兆候が顕著だと。

家庭での勉強は、覚えるために、答えを見ながらでも

正しく覚えてくれればいいのだが、

その行動こそが学習というものであるにもかかわらず、

確認ばかりが行われて、予習という名の確認ばかりが行われているのではないか・・・

そして、親御さんが『教えた』という自分の責任を全うした満足感が、

子供自身の学び自体よりをも、目的として上回ってしまっているケースも多いのだということ。

自宅学習では、答えを見ていい。
それが経験として学びになってくれればと。
そもそも、学校での学習でも、『覚えること』は、漢字など、その『答え』をみて覚える。それが学び。

家庭は、その学びのテストの場ではないはずと言う事。

親のための学習ではなく、本人が興味を持って考えるための学習を。

先生方と話す本音の話題は、
大切なことばかり。

我が家でも、そこは自戒せねばと。

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健康のスタート

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夕方から
#FEELCYCLE
#MKG
#武蔵小杉
にて、IRさんはAkito氏。
昔のJunさんを彷彿とさせるようなテンションの上げ方は流石。
気持ち良かった。そしてクタクタになれた。
健康だと感じられる今、それは、10年以上前からからの行動の実践による自負によるところが大きいと思う。健康は時間をかけて築くもの。

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2022/03/21

ありがとう…の反対を知る

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我が家では、テレビを付けている時間が増えた。

その時間のほぼすべてがBBC放送を付けている最近だけれども、

それももう一か月ほどになる。

日本の地上波を見ていれば、なんと呑気な事か・・・。

なんにでも首を突っ込むべきではない・・・とは強く思うけれど、

それでも僕らの日常の根源が、武力によって崩されている今、

そこから目を染めけてしまうような今で、いいものかと。

子供たちは、涙する子供をみて、心配する。

心が動いている。

そして共感し、なんで、今自分たちが、こうしているのに、

それが出来ていない子供や大人がいるのか、質問が生まれる。

そりゃ、ロシアにも言い分があるのだろうが、

そうなってしまった理由を根拠とする意見もあるが、

それでも、武力を限定的ではなく『使用した、使用し続けている』というのは、

これは根本的な、人類の平和に対する冒とく、自由に対する冒とくだと思う。

そんな、今の現実を知らない、興味のない人が大勢いるようにも感じる。

興味がないのはいけないことだとは思わないが、

興味がないと、無関心とは違う。

興味を持たざるを得ない状況でありながら、

あまりにも暢気だったりしているのが、テレビを垣間見ると伝わる。

『ありがとう』・・・の反対は『あたりまえ』

今の幸せな状況を『あたりまえ』と認識したときに、

人はどれだけ冷酷になっているのだろうかと思う。

その反対に、いつものことに『感謝』を見つけられる人間であるとき、

日々には心の動きも感動も多く訪れて、

豊かな心を持った、優しさのある人間に、

そして自分以外のことに涙を流せる人になれるのだと。

今、これまで当たり前だと思っていたことに、

それが、あたりまえではなく、とっても貴重なことで

守られていたことに気づくチャンスの時でもあるにも関わらず、

なんと暢気な事か・・・

今の子供たちは、

あたりまえの状況ではない環境で学び、生きている。

だからこそ、今の大人が『あたりまえ』と認識し、

比較してしまう過去の環境。

それをこれから先、『ありがたい』と認識できることが、

あたりまえになっているであろう。

それゆえ、今の子供たちが世の中を動かすときになったら、

そもそもが、感謝できる個の数が多いために、

素敵な世の中かも知れない。

それに引き換え、

私はオイルショックの時に生まれたが、

当然赤ちゃんとして、その苦労は知らない。

私が知る、時の流れ、それは、震災などを除けば、

世代として、世の中がどんどん便利になり、

そして苦労せず生きることができていて、

苦労した・・・は、今のウクライナの比にはならないであろうし、

次元が違うこと。

人々が、武力によって強欲を実現することには、命をかけて、反対したい。

コロナともまた次元が違う。

生きることが、生きる権利が脅かされている。

生存していると、生きている・・・というのは違う。

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デジタルの世界にあっても

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このレンズの色、
描写、使い心地、
その佇まい。
あやめが生まれた2013年に買ったカメラ、
#OLYMPUS
#XZ2
世代交代の速いデジタルの世界にあっても、
今でも売られている。
これは、作り手の強い想いが、ちゃんと息づいているから、
それを受け取る人が居るから、長生きしてるデジタルなんだと思う。

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2022/03/14

なぜ、惹かれるのか…個人的傾向

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私がなぜ、時
計を楽しいと感じるのか…。
スーツをカッコイイと感じるのか…。
共通点がある。
それは、かなりのレギュレーション、決められたルールがあるからかもしれない。
デジタルや、Gショックには、あまり興味がなく、実用でいい。
アナログ時計は、基本、円を描き、そこに3つの針、丸い文字盤。この中、このルールの中で、それぞれが個性を出す。
スーツも、一目で『スーツ』とわかる…と言うレギュレーションがある。
その『スーツ』と言う中での、デザインの勝負。
そこに、自由ではない、縛りのある中での勝負がある。
それを比較する事が楽しいわけだ。だから、全く自由なところからの絵画コンテストよりも、
車のデザインコンペの方が、縛りがあるから、比較が楽しい。
条件がある上での、作者の努力、想いを見つけて、比較してみる楽しさがある。
だから、車なんかだと、実は兄弟車とか、OEM車とかの比較が、とっても楽しい。決められたスケール、ディメンションでの勝負。
そんな中で、自分で勝手に勝者を決めて、自分の相棒にする。
演劇も、新作よりもシェイクスピアが好きだったり、何度も再演されるものを楽しむのが好き。台本が決まっている中で、どこまで勝負されてるかが楽しい。そして再演されるには理由がある。
だから、レギュレーションがあまりない女性のファッションとかより、リクルートスーツの方が、こだわりを発見するのが楽しい。
そう、時計って、速くても、遅くてもいけなくて、見やすくなくちゃいけない、わかるようでなければ。それでいながら、表情をかえてくれる。

だから、好きなんだと思う…。
と、自分を分析してみる。
#szsb021
#seiko

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2022/02/24

あれだけ『イケナイ』と教わり、言われても

全てを否定するわけじゃない。

ただ、とても深い違和感を感じること、今戦争になろうとしている場所がある。
いや、もう、これは戦争の始まり。

小学校の時から戦争はいけないと教わり、

夏になれば戦争の記憶を後世に伝える…などと言うコンテンツが盛んに世の中に流れて

明らかに戦争はいけないと言う概念を僕らが持っていて、

おそらく他の国の多くの方々もそうであろう。

そして今の僕らは戦争を経験してない人が大多数になった。

しかし、戦争の残響とすれば、僕の存在自体もそんな歴史的背景があるわけであって、
実際には、戦争を否定する強い言葉の数々に、
それを発する人が差別をすることに辟易している部分も感覚として持って来ていた。

戦時中の国際結婚と言うものの名残が、
昭和40年代生まれの混血児である僕にも外見として残っているわけで、
その点に関しては、一人、多くの時間を割いて教えられたことを、さらに考えてきている自負がある。

多くの日本人は、戦争を願わない。
そんな願わない状況に他国がなろうとする今、
首を突っ込みすぎるのも良くない。
だが、あまりに他人事すぎるのもどうかと思う。

これでは、戦争はいけないと教えられた子供たちからすれば、矛盾を覚えるだろう。

でも他の所ではやってもいいんだ…。
なんで止めないの?
どっちを応援しているの?

そんな正直な感想になってしまうだろう。それこそ大人な部分なのかもしれない。

子供達に教えたことを、大人が実践できないようでは…。

はたまた、教えてきた事が、綺麗事であるならば、それは教育と言う名の美辞麗句になってしまう。

教育は、絵に描いた餅か?

教えていること、教えられ出来たこと、それを実践出来る日本社会である事を願うばかり。

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2022/01/13

読解力…国語教育

今日は、小学校で先生をやってきた水曜日。

国語の大切さを、感じる。

でも、それは大人の世界での方が多い。

国語教育が、言葉の教育…だけではないと言うことを自覚しないとならないと感じている。
善意の広告になんちゃらかんちゃらクレームをつける方々は、広告の主張する『本質』を分からないから。

これは読解力の問題。

どんな名作だろうと言葉尻捕まえれば批判出来るだろう。でも、それは本質じゃないよね。

例えば、こう言うやつ。
東急電鉄のマナー広告。
本質以外を突っ込んだら、いくらでも、何でも批判出来ちゃうでしょう。

でも、その点で批判すべきは、この広告じゃーない。

読解力です。
読解力の欠如はなはだしいから、
批判出来ちゃう方々がいらっしゃる。

東急電鉄「車内で化粧はみっともない」 啓発広告に賛否両論の嵐 j-cast.com/2016/10/262817… #マナー問題 #化粧 #東急電鉄 @jcast_newsより

『これは、何を1番に伝えようとしているのか』
小学校2年生の国語で学び、
主語述語、そこには、1つの正しい答えと言うものがあります。
その順序をちゃんと学ばなければ、

共通の認識を共有する『言語』の意味がなくなる。
都合良く自分勝手に理解しちゃうのは、読解力の欠如の端的な現象だと思われる…。

つまり、単語や事象側面のみを捉えて批判するのは、お門違いと言うこと。

戦争映画だって、絵の端っこで死にゆく人にもドラマがあるわけで、
そこ話始めたら、趣旨が違っちゃう。つまりは、どこにフォーカスするか。

フォーカスされている点を読み解く読解力が疎かになっていると感じる。国語教育の責任だなぁ。

もっと、言葉には『正解』があること、
正しい読み解き方があること、
それを教えないと、自由な解釈をし過ぎると、言語ではなくなってしまうのだから。


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2022/01/06

開けまして…


2022年が始まりました。

どんな時の切替え、節目を過ごされましたでしょうか。

昨年は、私、
春より新しい環境に身を置かせて頂き、
新しい事にも向かい合い、
小学校二年生の子供たちと、言葉をいっぱい交わし、言葉を楽しんでもらい、覚えて、使ってもらう…と言う作業を、
小学校で毎週、取り組んできました。

このコロナ禍でも、子供達は、イキイキしていて、教わることもいっぱいでした。
さらに、
現役の先生や、校長先生から教わる事も多く、新鮮な言葉への発見もいっぱいありました。

この経験からの、まとめは、今年、春を過ぎてから、ようやく出来るのかなと。
そして表に出せるのかなと。
そう思っています。

今の社会、日本だけでなく、世界的な視点の上で、また春が訪れるのは、いつになるのか…。
それは、誰にも分からない事だとは思いますが、その春の訪れを1日でも早くむかえるために、日々で来る事は、やって行こうと。

そう思っております。

本年も、どうぞ宜しくお願い致します。

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2021/10/25

働き方、間違いな、新しい働き方


大前提として、日本が強かった時の働き方、それを否定しておいて、日本の競争力が下がった…。その議論が、不毛だと思う。

日本には、日本人の気質に合った、日本らしい働き方があって、そうなっている時に水を得た魚になれるわけだと思う。
だから、今の新しい働き方を前提にして、いくら議論しても、解決の糸口が見えない。
シンプルにそう思う。

日本は『組織』が大好き。それは僕も。
その組織愛というものが、強さにも繋がっていたと思うのです。
会社と言う組織も、その組織愛を受けて、互いに強くなって行く。
ドラマでも、そう言うのが流行る。
そして美徳、美談として語られる。

なのに、現実では、その組織からの解放ばかりが叫ばれ、そこベースで語る事が、新しい働き方と…。

例えばヒーロー、
アメリカだと一匹狼がヒーローになる傾向が顕著なわけだけど、
日本だと、団結をまとめた人がヒーローになりやすい。

日本は、団結する事に強さがある。
団結と言うのは、組織でないと出来ない。

その組織は、個の集団。

組織が個を、個が組織を頼らない傾向に持って行くことをが新しい働き方…と言っているように過ぎないと思う。

確かに、いままでとは違うけれども、
だから、『新しい』ではない。
新しくとも、合ってない働き方では、競争力は落ちる。

日本の競争力が落ちた…と言われ始めた時と、新しい働き方が叫ばれ始めた時期は符合する。

そこを考えず、『新しい』=『良い』と思ってしまう節、そのまま垂れ流すのは、どうなんだろうか。

その個について、価値観という尺度、教えている教育。
今の教育では、『新しい働き方』に見合うような価値観は教えていないし、
それは日本には、日本人には合っていない。

日本には、日本人らしい美徳があるわけで、
それを教えられてきた個が、チカラを発揮しやすい働き方。

それって、新しい働き方が叫ばれ始める以前のスタイルなんではないかなと。
そこの細かい環境を良い方向にと変えて行くことが、
それこそ、新しい働き方で、日本が強みを発揮する『仕事』が出来る社会なんではなかろうか。


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2021/09/30

金属発見

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最近、『金属発見』を子供らと遊びにしている。すると、
そこから社会と言うものを、子供達も学べること、重宝している。

社会生活を成立させる上でのインフラ、それはすべて金属が関わると言っても過言ではない。

これから人類と地球が共生していくにあたって、とにかく第一に考えなくてはならない資源の再利用と言う観点。

経済活動によってモノを生み出すためには、必ずや資源が必要であり、それを地球に依存している我々にとっては、
一度使ったものがまた資源として再利用できると言う事、
つまりは、資源、そのものを生産すると言う、その理念と実践のために、
頑張っている会社もある。

ただ、無闇にリサイクル=環境に良い…ではない。石油系の連産品に関しては、判断が分かれるところだろう。

このコロナ禍ゆえ、我が家の近所の散策のみでも、子供らと、金属発見の散歩は楽しい。
ベンチは、子供達が
お気に入りとして、新たに発見したポイント。
また、日々の生活の中で、金属との出会いと、感謝を発見すること、子供らは学んできている。


灯り、つまり電気も、金属がなければならないし、ガスも届かない。

生きるために必要な水つまり水道だって金属がその通り道を作り、運んでくれている。

ゴミ捨て時にも、子供らと、金属ガラスプラスチックゲームなるタイトルのもと、ゲームを。

こうすることで、材質や資源のことに真剣に向き合って考えている。なぜなら勝敗がかかっているから。

他にも色々発見した金属は、
Instagramで。
ほんと色々あるものだ。
そして、美しい。
ありがとう、金属。
 

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2021/08/29

責任の発生、判断すること。

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どこかで、任せっきりだった学校への責任は、

この状況下では、ようやく家庭側の責任の比重が上昇し、判断を求められて、判断に責任が生まれる。

でも、そこからコロナに対する対策は、違った尺度になるかも知れない。
 
先日のNack5、
レディオファントム
でも、取り上げましたが、

小学校、登校にするか、自宅学習にするかの自由判断、
未だに我が家は結論出ず、なおかつ、幼稚園からも、同じ提案。

姉妹揃って、家で結論を出さねばと。

保護者の多くから、『どうします?』の連絡。みんな迷ってるなぁ。自己責任の判断。

各家庭の状況により、判断も変われば、必然と結論が決まっている場合もあると思われる。

でも、コロナを前にした環境、
それを任せっきりだった学校、
いざとなれば、学校の責任だったものが、
大きく変わった瞬間が、
この一週間だったのではないだろうか。

さあ、どうする。

タブレット学習をする娘を前に、
カメラを弄り、
そして便箋に文字を走らせる。

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2021/06/07

違和感と言うのが、違和感に麻痺しているのか?

オリンピックはどうするんだ…
と言うようなニュース番組の後に
NHKを見れば、開催が前提の番組が流れていたりして、
そこに違和感を感じる僕ではあるけれども、
違和感を感じると言うレベル…であることが
そもそも違和感なのかもしれない。
何かが、麻痺してしまっているのではないかと、
反省してみる。

この感覚は、甘んじて受け入れているのか、
それとも、何かあきらめのようなものがあるのか…。

他の国から見たら、今の日本に住む人がどう見えているのだろうか…。

見え方を気にしているのではなく、
何かが麻痺しているのかを確かめたい感覚。


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