2019/11/22

そして…言っていた事

今回のフジテレビ、グッディのインタビューを受け、ほんと、情けなくなるばかりな、今…。

実は、
それ以前に、なんで兄として妹の快挙を
祝う事が出来ないのだと言う批判もいっぱい受けました。

だけれども、それは見出しだけを読んでまたは見出しだけから想像して僕に投げかけられた言葉でした。

僕の番組にも、おめでとうメッセージが届いたり。

それを、僕は、どう受け止めるべきだったのでしょう。

それをを、不快に感じたら、ダメだったのかと。


人の命の灯が消された…と言う事実。
それが弟であると言う事実。

それを無視して、やはり妹の快挙と言うものは祝えないものです。

たとえ父親が同じであろうとも、誰か他人の心を思いやること、人の悲しみを想像することのできない人間であると言うのは、僕は悲しい限りです。

人にされて嫌な事は、他人様にするな。これは基本ではないでしょうか。

美しい女性と言う基準に関しては、僕は母を見て思うところ、学ぶところがいっぱいあった人間です。

その基準からすると、外見ではなく、
心の内の問題。そこが美しい女性きれいな女性と言うのも、言葉の上でも、日常でも大切なことなんではないでしょうか。

仮にもし、彼女が違った形でがんばっているのならば応援できたかもしれません。

しかし今の彼女の頑張り方では、悲しむ人が複数いると言うことを彼女はわかっていないのかなと。

もしわかっていないのであるならばそれはデリカシーに欠けると言う判断に僕らはなってしまう。

僕はすでに、社会に出て、良いことも悪いことも褒められも怒られもしてきました。

完全なる模範的な市民であれ!ということではありません。

そうではなくてももし芸能界に身を置くのであるならば、

人の気持ちのわかる人間でなければ、芸能界に身を置く資格はないと僕は強く思うのです。


離婚の時に、慰謝料も求めず、
凛として、
最大限譲歩し、
一人の俳優のその後の歩みを止めなかった、配慮をした、その時の妻、

つまり、僕の母という女性に対し、
そこからまた大切な子供までも自殺に追いやられ、それでもまだ、
元、夫を破滅させるような言葉を口にせず、配慮した女性に対し、
自身の子供、僕の弟でもある三男の死後もなお、
配慮という名の下に、慎み深く、言葉を発することのなかった、僕の母親に対し、
これ以上にも、仕打ちになるような事、繋がることをするのは、やめて欲しいと願うばかり。

でも、そんな配慮を察することなく、
芸名?とし、名を使う事の出来てしまう彼女というのは、
僕の母が、最大限の慎みを実践していたからゆえ、今がある。

今、僕らも、彼女も、その恩恵を受け、今があるのにかかわらず、
それに気付かないからこそ、
今の活動が出来てしまっているのかな…などと思う、近頃です。

人は自由であるべきですが、
宿命というものもあると思うのです。

その逃れられない宿命の中で自由なんではないかなと。
そこには、自分の背景というものがあります。その背景を背負うならば、せねばならない配慮もあるわけで…。

もう、これ以上、母を、そして僕らを苦しめないで欲しいという本音。

以上が、僕が取材に対し、答えた趣旨でした。

その上で、

突如として、墓を作らなきゃいけなくなった時、

父が自殺に追い詰め、僕らから奪った弟を送るとき。

僕らは、残された『岡田』として、お墓をつくり、弟を埋葬しました。

今回の取材で、『岡田という姓は名乗るな』と僕は言っていません。

6回ほどにわたり、ディレクターさんに『この一言、岡田という姓を名乗るな!と、どうしても言って下さい。そうでないと、帰れないので…』というような事を言われ、

何度も、
『僕には、そんな事を言う権利はありません』と、お断りしていましたが、
そのカットは、しぶしぶ、CM用のセンセーショナルなカットとして、懇願されて、一言を。

他にも、『裁判にして訴えたり、しないんですか!!』と。

逆に僕は、『そんな事、出来るはずないですよ。それは彼女の自由なんですから。』と。

逆に笑ってしまうくらいに、センセーショナルにしようとしてるんだなと、感じました。

今回、
RADIO BERRYのスタジオで取材に応えたからこそ、
ちゃんと全てが録音して、そんなやり取りなんかも、残されてるわけです。

人は自由であるべきだけど、配慮という言葉を知ることも、素敵な女性ならば、ないと、だめでしょ。どうなの?と。

今回、コメンテーターのみなさんは、あのスタジオで曲解され、勝手に作られてしまったものを、説明受けてなら、当然のコメントだなと。

謝罪されたって、放送されてしまったものは、もう、勝手に一人歩き。
放送で大切にすべき事、
明日のNack5、RADIO PHANTOMの放送に向けても、反面教師になるコンテンツだったなと、振り返るばかりです。

|

2019/11/21

今日のグッディ、趣旨がちがーう!

昨夜レディオベリーの生放送終わって、 フジテレビが、週刊女性の記事を話題にした話をしてほしいと言うことで取材にやってきました。 そこで2時間以上はお話をしたのですが、 改めて、事情を説明すれば、 離婚の少し前に、俳優の一生の仕事として日本の映画を作りたいから、莫大な借金を抱える。それを君たちに迷惑をかけたくないからと言う理由で、離婚すると。 だからこそ、僕の弟はまだ中学生やそこらでしたが、養育費や慰謝料なども請求しないでほしいと。 その上で、離婚してみたら映画どころか新しい結婚。 おいおい!!! そしてその頃にはもう岡田から抜け出て鑓田眞澄になっていたのです。 『もう、僕は岡田ではないので〜』 そんな言葉で片付けられました。 まぁ、小さな恨みつらみは省くとして、 僕の弟、三男は、1番のお父さん子でした。だからこそ、裏切られたと言う感覚も当時強かったのでしょう。 僕は、大学を出て、普通にサラリーマンでした。サラリーマンでありながら、大学時代のバイトの影響もあり、その会社のラジオ番組を残業で担当させられたり…。 弟、三男も大学を出て、舞台の制作会社のサラリーマン。 それゆえ母親の前で、 弟は、社会人になってから、 『僕がプロデューサーになって父親を出演者として使って、お父さんに頭下げさせてあげるからね。』 と言う、いわば1番のお父さん子だったからこそのショックを受けてその反動で父親に頭を下げさせてやる!…というような思いが、彼にはあったわけです。 それが、アテネオリンピックの年、 父親を、使ってやる!が、実現する運びとなったものの、代役の効かない本番数日前になり、いきなり制作会社には、 『娘の運動会に出たいからこの舞台は出演しない』 などと制作会社に対して降板を申し入れてきたわけです。 当然その舞台は東京公演や大阪公演九州公演などがあるわけで、チケットも売れてしまっているわけです。 そのような段階になって弟からすれば、自分の手がけてきた仕事をキャンセルされ、すべての公演ができなくなってしまうと言う状況。 勤めていた、会社の中での責任、社会的責任、そして母親への責任。 後は逆にどこかで父親を信じていた三男の思いもあったことでしょう。 俳優としては尊敬していたわけですから、起用したわけであって、それが俳優として仕事に向き合う姿勢として、そういう理由で降板とは、どうなのかと軽蔑する思いもあったことでしょう。 アテネオリンピックのあった7月27日、朝、自宅の前で首をつって自殺しました。 『お母さんごめんね、僕ができる親孝行は、遺族年金だけになっちゃったよ。』 この言葉が、どれだけ僕らに重くのしかかってきたか。 母親からすれば、自分の息子を自殺に追いやる父親なんて父親じゃない。 母からすれば、残されて育て上げた息子まで私から奪っていくのかと。 それは僕らも思うところでした。 やはり親が自分の子供を自殺に追い込む…。これは絶対、人として許されるべきではない。 でも当時は、今のようにTwitterなどもないですから、父親の方がメディアで語ったことがそのまま受け入れられてしまいました。 さて、そんな事より、 想定もしていなかったお墓を、我が家は用意しなきゃならなくなりました。 眞澄さんが鑓田になったのなら、 暮石の名は、僕らは引け目を感じる必要はない。 堂々『岡田家』でと。 家紋だけは変えました。 でも、私の母は強い人ですから、その後いちゃもんやなんやかんや言うような事はありませんでした。 『関わらないで生きていこう』 という強い意志がありました。 いわば、これは、あちらのおうちへの、配慮でもありました。 それからずっと、その配慮は徹底されてきました。 でもね、人には自由と言うものもありますが、宿命と言う背負うべき立場からの配慮と言うものもあると思うのです。 自分が何かをすることによって、深い悲しみや、傷をえぐり返すようなこと。 それは避けるべきだと思うのです。 少なくとも、僕らの家族は、文化放送で『捨てられた家族』と当時言われました。 『そんな捨てられた家族は生ごみそれとも燃えないゴミ?』とかね。そんなことをラジオの生放送で言われたり…。 それを僕らは甘んじて耐えて聞き流すほか、なかったわけです。 自分がこの世に生を授かった背景、素敵な女性と言うのはそういうことを考えた上で配慮のできる女性こそが素敵な女性なのではないかなと。 自分が、岡田と言う名前を名乗ることによってメディアに取り上げられ、それは僕らの耳までも入ってきます。 当然、僕の母にも。 僕のラジオ番組にはおめでとうございますなどと言うメッセージもいっぱいきました。 僕は、まだ、それはそれでいいです。 まだ、僕は当時、そもそも大学生でしたし、興味は他にあったし…俯瞰で見ているので、さらには、もう慣れっこになってしまっていますから、比較的大丈夫なわけですが、明らかにそのことによって傷つく人もいるわけです。 ミスインターナショナルに出るのは良いよ。だけど、君のお父さんは、覚悟をもって、我が家を捨て、鑓田眞澄になったわけです。 それは、当時、表に出ることはなかった事です。 だから、静かにしていた、我が家があるわけです。それこそ、配慮でもありました。当時でも、週刊誌でなら、話題にもなった事でしょう。しかし、それは、しなかった。 耐えた母が意思を通しました。 だからこそ、そこは、 もう、母に、これ以上、痛みや悲しい過去を思い出させて欲しくないわけです。 傷つける思いはないにしろ、想像力があれば、傷つく人がいる事、わかってほしいなと。 ミスインターナショナル、 素敵な女性を目指すのであるならばそういった配慮のできるような女性になってなきゃいけないんじゃないの…というのが趣旨でした。 彼は鑓田になる事で、色々な問題を回避しました。 それは多岐にわたり、なおかつ、弟が自殺した一側面でもあったわけです。 それを今回、岡田として出られたことにより、弟の死をえぐり返されてしまう僕ら、家族があること。 もう、これ以上、母を傷つけるような事はして欲しくはないです。

配慮には、配慮を持って対応出来るのも、素敵な女性の条件ではないですかと…。ね。


と、僕は聞かれたから答えたまで。

能動的にクレーム言ってるわけでもないし。

岡田を名乗るな!とか、目に見える浅はかなクレームじゃん。今日のグッディのは。

そんな事を話したわけではないのは、ディレクターさんもわかってたはずじゃないの??


放送後にディレクターさんから謝罪の電話があったけど、個別に謝れば終わっちゃうことなのかね~…。

|

2019/11/11

どこかで、自分を騙し騙し

オトナ〜!な価値観の中では、
どこかで、自分で自分自身に言い聞かせている事が増えている。

言葉を変えれば、
自分を騙し騙し。納得させる自分自身を…。

それは、社会を円滑に運ぶためでもあるんだと、大義名分を付けてしまう。

だけど、自分自身を騙し騙しやってきても、どこかで限界はあると言うもの。

例えば、今年、春、初夏からの韓国に対しての日本は、そうだと思う。

我慢の限界、辛抱の尾が切れた。

一線を超えた…出来事ってやつだろう。

その後になってしまえば、
もう、騙し騙しという状況には逆戻り出来ないわけで、
そこからは、正直に…なる他ない。

韓国に対し、以前のような
『まあ、そこは…』
と、棚上げも難しくなるってもの。

体もそうかもなと。(笑)
でも、体は騙し騙しで、気がつけば治っている事もある。
先週のギックリ腰がそうだった。

体を騙し騙し、酷使している。
それでも、労わってあげれば、回復も。

なんとか身体の一線というのは、絶対超えないようにしなきゃね。

そう、そのためかな。
最近、紙巻きはやめておりまして…。

ジッポーを使う自分に憧れ、実践していたわけですが…。

そのために騙し騙し…だったのかなぁ。(笑)

それって、どこかで一線を超えたから、
それを自分が偶然にも認識したからなんでしょうかね〜…。

|

2019/11/05

異常ってわかりやすいのに…。


何が普通かを考えるよりも、
何が『異常』なのかはわかりやすい。

ストーカーってのは、本人こそが、
一番気づかないもの…のようで、
まあ、困ったちゃんなわけです。

もう、笑うほかないレベルで、勝手な妄想力発揮して、
なんでもかんでも結び付けては、勝手な想像…という名の妄想をして、心配してくれちゃう。(笑)

もうね、『心配されるべきはあなた自身なのですよ』と教えてあげたい。

しかし、そこはやはり、教えても気付かないわけで、警察を敵とみなして、
勝手なロミオとジュリエット気分かのよう。

あの〜、僕はあなたを知らないんですが…。

こういうのは、
『知らないフリをさせられてる』
と、頭の中で変換されちゃうようで、
まあ、幸せなこと幸せなこと…。(笑)

その分、はっきり言って、よく分からない人なわけですが。

こう、しるしてと、その人は、自分の事だとは気付かないいんだろうな…。

ほとほと疲れてしまうわけです。

|

2019/10/02

居酒屋ふじ

2017年に放送になっていたテレビ東京の土曜ドラマ『居酒屋ふじ』を、
Amazon Primeで発見。

このドラマ版絶妙な割合で、笑や人間の悲喜こもごもがミックスされていて大好きなドラマだった。

やっぱり、今見てもいいね。

現実の季節料理ふじ…には行ったことがないが、こういう店ならば、僕はいっぱい知っている。

残念なのは宇都宮の『みき』という店はなくなってしまったこと。

この場所でも、色々な方々に育てられた。

年齢はいくつになっても、謙虚であれば、育てられるもの。

そして、育てもする。
そう変化もしてきた。

お酒がある場所でしか育たない側面も、人間には、日本にはあると思うんだよな。

いまも、宇都宮では、大切な場所がある。もちろん大宮でも、川崎でも。

どんな自分になっても、大切な場所は変わらないものだね。


|

2019/08/10

芸術家とクリエイター

愛知トリエンナーレが、色々とあったと。

そもそも、芸術なのかどうなのか?

芸術監督が津田さんだったというわけだが、
津田さんは、そこに秀でた方というわけではないというのが、僕の認識。
2010年、一緒に仕事をする機会があったりもし、酒酌み交わしもしたが、
津田さんは、この分野ではない部分こそが素晴らしく秀でていらっしゃる方だと記憶している僕がいる。

いわば、芸術家に近い存在ではなく、クリエイターに対する造詣がある方ではなかろうか。

話題集めるための企画や作品・・・というのが芸術なのかどうなのか?
少なくとも、僕は違うと思う。
そこに芸術家、作家なのか、クリエイターなのか・・・という違いがあるのではないか。

つまりは、今回の企画はクリエイターによる作品展であって、
芸術家、作家による作品展ではないのではないかと思う。

そもそも芸術とは、作り手の愛情と情熱が作品に集中していて、
それらがレンズを通して一点に集中して集光発火しているようなものだと思う。
出来上がった時の話題云々を考えて作られるものではないはず。

僕が参加するラジオ番組は、そりゃ、芸術ではない。
でも、僕が、舞台で参加する作品や、プラネタリウムでのステージは、それこそ
かわいい子供のような分身であり、芸術だと思っている。

クリエイターは、先を読んで勝負をかけるが、
そこは、生放送のラジオでもそれに近い作業が行われている。
ただ、作品・・・というものをつくっている感覚とは違う。

これを言ったらどうなるか、
平衡感覚や、どうなるかを予測しながら話している感覚がある。
つまりは、そういうセンス。
そのセンスは、芸術とは違う。

でも、平衡感覚や、どうなるかを予測しながら話している感覚。
それは芸術を邪魔する事、側面でもある。

それだからこそ、表現の自由・・・ということが叫ばれる現状があるのであって、
話題作りに表現の自由・・・とは、明らかに違うような気がしてならない。

芸術は、世間、社会に対する効果を狙って取り組まれるものではないはず。

もちろん、技法によって、鑑賞者に伝える最低限の伝達は、分野によっては必要でもあるわけだが・・・。

しかし、完パケ番組なら、芸術・・・という思いで作業にあたる場合だってある。
先を読む・・・ではなしに、その時の勝負であり、情熱だったり、愛情。
そういうもの、番組をつくる機会は少ないが、できるとも思っている。

最近、芸術家に出会った。

那須で作品制作活動に励む阿部さんだ。
67689246_3383413081672626_67812026339075

作品が世に出てどうこう・・・なんて考える暇なく、
黙々と作品に向き合って、制作していらっしゃる。
その黙々・・・というものが、優雅なものであったり、穏やかな時間であったり、阿部さんの中でも色々なケースがあるにせよ、
阿部さんは、自然の中で制作作業にあたりたいと、東京から那須塩原に移住までしている。
それは決して話題作りのためでもなんでもなく、自分が向き合う芸術のため。

作品で世間を・・・ではなく、自分の中にある描きたい、作りたい!という衝動に素直に向き合って、作品が出来上がっている。

そんな阿部さんの言葉、今日、土曜日の朝8時25分、Radio Berryで番組になっています。

簡単な話、阿部さんの話には、つっこみどころがないんです。

そうなんですね!としか言いようがない。つまりは納得してしまう。
それだけの作品がある。
だって、阿部さんの中身から生まれたものなんだもん。
そこに理屈も屁理屈もない。
67597160_3383413461672588_27933130484613
それこそ、芸術何ではないかなと。
自由に表現されているのです。

表現の不自由・・・なんてことは、芸術は気にしない。
それ以前の問題なんです。
だって、個人という存在の中身なんですから。

表現の不自由、それを気にしもするのは、クリエイターであって、
芸術ではないと思う。
http://shinzen.air-nifty.com/photos/uncategorized/67884087_3383413111672623_21160180346897-thumb.jpg?1565371749029
そうそう、写真家、アラーキーは、何があっても写真を撮ると思うのです。
写真として一枚は残すはず。

ただ、それを出版する際に、表現の不自由で悩む編集者・・というクリエイターがいると思う。
そう、彼は、クリエイターであり、芸術家ではない。

67649286_3383413488339252_36315155416439

67884087_3383413111672623_21160180346897

| | コメント (0)

2019/08/07

今、というイデオロギーを通さずに

何時間か前だが、

昨日書いたことは、
政治的な意図はなく、あくまで個人個人の心の中の作用、
向き合うチャンスに関してのこと。

確かに政治的な話題に結び付けたいという意図もわかるが、

それこそ戦争史観ではなく、人間として一人ひとり、
心の中の葛藤で、今の政治とは結び付けずに、
過去を直視する事。

そういうコンテンツが減ってしまったなとつくづく。

過去を直視したうえで、
その上で、人それぞれの、今の時代への観念、
つまり政治的な意味合いを、発見すればいい。

それを今の政治的な観念『ありき』で、過去を振り返るのは残念。

つまりは、今の観念が前提にあっての過去の戦争史観になっちゃう。

できれば、今・・・のまえに、素直に過去を見つめなおすこと。

そんな作業をしてから、今のイデオロギーに向かい合ってほしいと思うばかり。

なんだか、過去を利用して、都合よく解釈するのでなく、
人間として、なにが悲しいことなのかを考える8月でありたいなと。

そう思う。

|

2019/08/06

8月6日

この4年ほどだろうか。
以前は8月に入れば、それこそ広島に関する番組、コンテンツ、
戦争に関する記録や証言、それを語り伝えてくれるものが多かった記憶。

 

それが小さいころからの、夏休みのテレビの中の世界と感じていた。

 

それが少なくなったのではないだろうかと。

 

着実に戦争を知っている世代は少なくなっている。

 

だからこそ、コンテンツとしては作りにくいという現場の事情もあると思う。

 

でも、夏って、そんなもの、にいっぱい触れる時間であったはず。
それが昭和48年生まれの僕の『夏の感覚』

 

それには自分に通ずる歴史を感じもした。

 

戦争を知らなくても、『悲しい』というものが何なのか、それを味わっておくべき8月、
今、どうするべきなのか?

 

子供たちの時代には、余計に、戦争という言葉が、
漠然とした希薄ものになってしまうのではないかと。

 

いずれ、そんなことに対する作業も出来ればと。

 

そのためには、それができる環境をつくっておくこと。

 

8月6日、それを感じる日でもあった。

| | コメント (0)

2019/07/16

誕生日に寄せて想うこと

誕生日に寄せて思うこと・・・   ここ何年かの確信として、 よくラジオをやりたいなんて人が、 『情報発信』なんて言葉をつかってきますが、 僕はそんなことではない・・・と思っています。   ラジオは、聴いている人しか聴いていないのですから。 これが当たり前であり、大前提。 だからこそ、その方々に向き合う時間を作ることが、番組を育てることなんだと思っているわけです。 番組を聴いてくださっていることに『向き合う』とはどういうことなのか? つまり、ラジオをやりたいと言う人、やってる人が、情報発信を…なんて言う言葉を使ってくれちゃう場合が多いわけですが、 今やネットの時代。 自分が求める情報は検索すれば、それこそ自分が求めた回答にに見合うものが、情報として見つけることもできる。 いや、マスに向けたメディアに対して情報を求めるよりも、 自分が求める情報を的確に発見する能力は、今はみんなが持っているといっても過言では無いと思う。 だから情報発信ではなく、今その時間を共有している人と、どう向き合うか、 向き合うためのメディアこそ、今僕が取り組んでいる番組たちなのだ。 例えば、子育てのお母さんに向けて向き合う、 お母さんの想い、言葉を受け止めるとはどういうことなのか。 お母さんが新たに買うことを推奨する絵本の紹介・・・ではなしに、 お母さんに向き合った場合は、 いかに子供だけの時間を創出するかということなのではないだろうか。 お母さんが求めているものは、子供の手が離れる時間であって、 その時間に朝ごはんの支度や、お弁当の用意をできる時間。 これを求めている。 そう考えると、お母さんに向き合った番組、 お母さんの思いを受け止めた番組・・・と言うのは、 それこそ、お母さんと一緒にいない時間、子供に夢中にさせてくれている、 【お母さんといっしょ】と言う番組なのではないだろうか。 この番組がやっている時間、子供を子供のみで向き合わせてくれる時間を作り出している。 お母さんと一緒じゃなくても、お母さんと一緒なわけだ。 それはお母さんが必要とするものに向き合った結果としてのコンテンツの1つの集大成。

そう、絵本の紹介やら、

子育ての話では無いのだ。

お母さんが、自由に動ける時間を作ること。それがお母さんに本当に向き合うと言うことの本質。

ラジオだってそうだ。テレビ番組でもそうだ。 では向き合うために何が必要なのか。

それは、日常の中で、子育て一生懸命したからこそ共有できる言葉、

経験もあれば、

仕事に全力で向き合うからこそ、仕事の辛さがわかったりだとか、 悲しい思いをした時に、それを忘れず、自分に刻む作業 飲み過ぎて二日酔いになって、それで翌日に向かう辛さも含めて、

要は経験、

その蓄積なのだ。

その経験と言う蓄積によって、 受け取った言葉をより心深く受け取ることができる。 つまりは日常の生き方、時間の過ごし方、それを心にどう止めおくか、 そういったことが表方の大切な作業なんだと思っている。 よく、翌日の番組のために準備をする…なんて言う場合があるが、 それはディレクターなり、作家さんなりに信頼をおいて、任せる作業なんじゃないかと。 表方が流されやってしまっては、やっつけ仕事の、 その場限りの情報発信にしかならない。 はたまた、『表面上の言葉の羅列』のオンパレード。 番組を面白くする…なんて準備ができない。 面白い人が、番組をやれば面白くなる。 準備して作り出した面白さなんて、 それはリアルタイムなメディアではない。 偽物の面白さ。 かっこいい人がやれば、それはかっこよくなる。 面白い人がやれば、面白くなる。 同じことをやってもだ。 嫌な人が同じことをやれば、 それは訴えられてしまうこともあれば犯罪にもなり得る場合もある。 壁ドンなんてその最たる例だろう。 かっこいい人がやればかっこいいんだ。 だからこそ、面白い人がやれば番組は面白くなる。 そしてそれを生かすのは、ディレクターや作家さんがさらに昇華させてくれる。 それが、それぞれの資質と言うもので、絡み合って、 面白い番組が出来上がるのでははなかろうか。 それを、無理矢理面白そうにしている番組も・・・ そんな番組もあるといえばある。 幸いにして、僕が携わる番組と言うのは、全スタッフに信頼を置いて、取り組むことができている環境にある。 だからこそ、表方と言うのは、常に色々な言葉を受け取るための鍛錬、 労作として、日常を過ごすことにあると思う。 そしてそれを忘れないこと。 そして番組の間、リアルタイムにその思いを受け止めること。 でなければ受け止める・・・なんてできない。 そして受け止めた場合次に行動すること。 本気で受け止めれば行動せざるを得ない時があるのが本物だ。

僕はこれまで、ラジオがあったからこそ生きて来れたと言うことを何度か言ったことがある。

それは僕が聞いていた番組のパーソナリティーが、本気で受け止めてくれたからこそ、

その先に、行動で接してくれたからこそ、

今僕が生きている現実がある。だからなのだ。

それは、すべて行動に…と言うのは難しいかも知れないが、行動にも波及することこそ、本気で誰かの言葉を受け止めた象徴では無いのだろうか。

今や、実に表面上の言葉で時間が過ごされてしまう番組が多いなとも感じるこの頃。 それが悔しくもある。 だからこそ、僕が携わる番組と言うのは、 全身全霊で番組に向き合ってくださる方の言葉を受け止めたいと思っている。 番組と言うのは、情報ではない。 時間の共有だ。 何十年か前までは違っていたかもしれないが、本質ではやはり、時間の共有なんじゃないかなと確信している。 46歳、 家族を大切にしつつ、 仲間を大切にしつつ、 番組を大切にし、 番組家族を大切にしつつ、 仲間を大切にしつつ、

番組を大切にし、番組にを味わって下さる皆様と、育てていきたいと思っている。

あらためて、メッセージ下さった皆様、ありがとうございました。

| | コメント (0)

2019/07/03

もしも、友達だというのなら

ブログのコメントってのはさ、

ブログに対するコメントであって、

私信じゃない。

もし、友達だと言うのなら、僕の電話番号なり、メールで連絡をくれればよい。

僕の友達ならば、それを知っているだろうし、そうでなくとも、仲間ならば、ツイッターやら、メッセンジャーなんかでメッセージのやり取り、しているはず。

そこを大前提として勘違いしている人もいたりしている…。

そういうのって、なんなのだろうか?(笑)

はっきり言って、友達でもないし、一番無関係な人からの言葉やら、他人への誹謗中傷をひたすら羅列されても、その言葉を生んだ人への嫌悪感しかないから。

そして、一番思うことは、そういう人って、可哀想な人なんだろうなと…。

誰だかわからないが、もし、友達だと言うのなら、電話してくればいい。

メール送ってくれればよいのだ。

まあ、そうでないなら、僕の友達でもなんでもないわけで…。

他人のことは、とやかく言える立場でもないし、僕の仲間に無用なジェラシーなんて、持たないで欲しい。そういう人に、そんな権利もない。

おそらく、僕が疎遠にしたいような人こそ、その人だと思う。

これを見る、多くの人は、そうではないのだが…。

| | コメント (0)

2019/06/24

言葉を編む

言葉と行動について、話すことが仕事だからこそ考えることが多々あるが、

想像力も豊かに、はたまた1つの言葉から想像できる多様な現実を想定することも、僕は、俳優と言う仕事柄、それを専門的に勉強し、ワークショップにも多くさんかし、訓練をしているから、とても得意な分野である。

Ffa69c406af741e69f2ff640bf1f2117

だけれども、その言葉を使う前提自体が崩れていれば、意味不明と言うこともある。

 

相手のことを、一切知らずして、自分の想像の中だけて、相手の人物像を作り上げ,

その上で,

そんな、勝手に作り上げられた人物像をベースに、ひたすら必死に語りかけられてしまっても、こちらはお手上げと言うもの。

62c87f5309e8458e8e9d94800f90a3b9

まぁ、いろいろなところで人間関係のトラブルと言うものはあるだろうが、

僕にまつわるところで見かけるトラブル等と言うのは、

僕が直面している問題に比べると、それこそ稚拙な問題かのようにも見受けられる。

 

ストーカー規制法だのなんだの、気軽に言葉として安易に使われるてるケースを見ると、

これが、実際にはどれだけ大変な『証明作業』であるかを、ご存知ないのだなと、思わず、子供の喧嘩のように思えてならない。

 

相手にしないのが、一番なのです。

 

例えば、実害の証明も大変なものです。

気持ち的に傷ついたとか、不愉快だと言うことを、証明…

これは、ストーカー規制法では、扱えない範囲だと多くの方が理解していないのだなと。

 

おそらく、一般的な感覚からすると、想像以上にストーカー規制法を使う人間関係と言うのは、証明が難しいものであるのです。

 

ストーキングされたとしても、実害を証明しなくちゃならない。

それは気持ちの問題ではなく、どう言う実害が存在したのかを、

書面で証拠として証明し、裁判所に提出、これを出来なきゃならないのです。

 

で、また難しいのが、その実害を自分が被る、被ったことを、自分だけでは証明にならず、

もし、第三者が実害を被った場合、訴えられる権利を持つのは、自分ではなく、その第三者なのです。

 

そう言うことを知らず、そんな言葉の応酬を繰り返している状況なんかを見ると、

その現状に直面している内側から、それを見れば、ほんと、稚拙なやり取りにしか見えないわけです。

 

さて、それらは置いといて、

その原点は、言葉の一人歩き。

言葉の一人歩きは怖いもの。

 

ましてや、互いを知らない関係で、言葉が一人歩きすれば、言葉のニュアンスは皆無であるケースも。

 

メール文化によって、あまりに言葉が誕生し過ぎる現状を考えると、単語ひとつひとつが、安っぽくなってしまっているとも感じる。

 

手紙文化のように、一語一句を吟味しながら言葉を編むことも、必要な事じゃないか。

 

 

今だからこそ。

 

| | コメント (0)

2019/05/21

お利口さんでいないでいいんだよ

昨年は、蜂窩織炎で長く入院していたあやめが、

今年も蜂窩織炎になってしまった。

親としては、自分を責めるばかりである・・・。

病院が終わってからの救急外来で、昨年入院した日医科大へ。

足首は2倍に腫れあがり、腕もポパイかのように腫れあがっている。

でも、この笑顔である。

A8dababec2bf4b60a3e66470cab5465d

診断はやはり蜂窩織炎。

でも、家に戻ってから、

痛みがあると、初めて言った。

病院ではお利口さんだったと言わんばかりに。

いやいや、それじゃ、病院行ったことに対して本末転倒。

でも、そんなことは日常にも、大人でもあって、

配慮という名のものとに、お利口さんになってしまっている場合も。

本心は別のところにあるにもかかわらず、

配慮を優先してしまって、

大切なことは、信じられなくなってしまうというもの。

誰もが、本心はある。

でも、その本心を言わずして、お利口さんに控えたばかりで、

後から、期待に応えられないと言われても・・・。

そりゃー、逆に信じられてないんだな・・・となっちゃうよ。

医師は、痛みを気にしていた。

それでも、お利口さんで、

まあ、入院したくないという思いがあったとはいえ、

そこは正直に言わなきゃ、医師は対応のしようがない。

ワガママに見られたくない・・・という思いがあったにせよ、

正直な部分も語ってもらえる事も、大切。

言葉を受けた側は、相手から

『真意は伝えられるような相手ではない・・・』

と思われているんだなと。

もし、娘も、今夜、以前もお世話になった田辺先生ならば、

『痛いです』と言えてたと、帰宅してから言っていた。

Img_7614

いわば、今日の救急外来の先生の前では、

とってもお利口さんを装っていたわけ。

実は、信じていなかったということ。

田辺先生への信頼と、今日の先生への信頼の違い。

でも、今日の先生も信頼できるんだよと、教えた。

そこは、本当のこと言わないとー!!

痛みを解消できるか、できないかは、また別の問題。

痛みを緩和できないときには、耐えることを理解せねばならないが、

まずは痛みがあること、それは言わないとー。

あまりにも、世間では建前とは別の、お利口さんな

表向きの言葉・・・ばかりで、本質が議論されていないと感じることも多々ある。

ワガママになると思っても、第一の希望は伝えないと。

やはり、信頼というものがないのかなー。

それとも、まったく別で、そもそも、本当のことを言う相手ではないのか?

今夜の先生は、あやめにとっては、後者なのかもしれないが、

もし、田辺先生だったなら、痛みがあると言っていた・・・のだと。

最近よく耳にする熟年離婚なんて言葉も、

奥様が、あまりにお利口さんでいすぎた結果なんじゃないかと。

そう思ってしまう僕もいる。

本当の希望を伝えることは、ワガママとは違う。

ものわかりの良いワガママは、相手にも信頼していることの証として映る。

そうでなきゃ、手遅れになってしまうことも。

お利口さんでいすぎると、一瞬はいい子に見られそうだが、

その実、良いことはない。

真意はどこか・・・見極めなきゃ。

 

 

 

 

| | コメント (0)

日医科大 武蔵小杉病院

彼女の口ぐせは、いつもこうだった。
『あやめちゃんの病院はね〜、ご飯も食べられるし、カレーも食べられるし、ドトールコーヒーもあるんだよ。先生がいっぱいなんだよ!』

7061c6258e224a5485273a1712d1501e

彼女は、2013年7月29日、我が家から近くのとても大きな総合病院で生まれた。一般的にいわれる、難産。
10人以上が掛り切りになった。
とても大変な出産であったことは、傍目から見ていた僕にもわかる。
始めは、助産師さんと研修の学生さんの2人だったが、彼女がなかなか出て来ないので、

医師の数が一時間という時間の中で、二桁にまで増えて行った。
そしてようやく生まれてくれた。

 

家内は出産の記憶がないと言う。彼女に会えたのも、この世に出てから、3時間後。

新生児蘇生を受けての、その上での彼女との対面。

 

そんな『彼女』とは、わが娘、長女、岡田あやめ。
大学病院が、かかりつけになってしまっている。

 

彼女には妹がいる。妹は、我が家から近くの、小さな小児科専門クリニックが、かかりつけ。

 

生まれからして、大きな違いのある2人姉妹。

 

だけれど、お互いに、自分自身のかかりつけ病院にプライドを持っているようだ。

 

彼女は、よく言っていた。『私の病院にはレストランもあるし、コーヒー飲める場所もあるし…』

とにかく総合病院を自慢していた。

 

妹は、『風邪ひいたら行く〜。シールもらえる〜』と、負けない自慢を自分が、かかりつけのクリニックに。

 

互いの『かかりつけ病院自慢』は、とても可愛らしい。
違いは他にもあった。

 

彼女は、特殊で敏感なアレルギー持ちだ。
昨年の初夏、その年初めての虫刺され。
僕が出張中の事だった。

 

生放送の仕事をしながらも、僕のスマホには家内からの着信。いくつも。
こんな事はめったない。
でも、仕事中だ。
局にまで電話が入っていた。
『娘さんが緊急入院したそうです。』
生放送終了後の、スタッフからの第一声に、僕はたじろいだ。

 

蜂窩織炎というものだったらしい。
妹のかかりつけクリニックにて診察してもらったら、急遽、そのまま日医科大武蔵小杉病院へと、緊急入院。

 

入院初日、彼女が生まれた、知っている総合病院でない、初めての大きな病院であったことから、

大きな不安が彼女を包んでいるだろうことは、容易に想像できた。

 

僕も知らない病院。
日医科大武蔵小杉病院。

 

行ったことのない病院…。
出張先から電話する。

 

電話口の彼女は、4歳と言えども、とても元気に振る舞っていることが分かった。

 

『お泊りしなきゃいけないの…。』
『おとうさん、早くても明後日になっちゃうけどいい?』

 

もう僕にはそれくらいしか言えない状況でもあった。

 

金曜日、朝の生放送を終えて、急いで湘南新宿ラインで大宮から武蔵小杉へ。
大人の僕でも、初めて訪れる病院には緊張していた。

 

自分が住んでいる街なのに、駅の出口、どこを使えばいいかも迷う。
駅から10分ほど歩いただろうか。
日医科大武蔵小杉病院のエントランスをくぐる。

一般面会時間外ではあるが、お父様ならば、どうぞ…と。

 

制服を着ている警備の方が面会バッヂを渡してくれると同時に、

『お嬢さんですか、心配ですね。早く行ってあげて下さい』と。なんだか、それまでの緊張感が和らぐ。

 

エレベーターまでの30メートルほど、真っ直ぐに歩いて行くが、

その間に車椅子何台かとすれ違った。みんな和かな会釈をしてくれる。

車いすの患者さんも、それを押すナースも。

 

なんだ、この病院という施設にあるまじき明るい雰囲気、光。
この感覚は僕が4歳の時に原因不明の高熱で入院した

相模原の北里大学病院の雰囲気。その時の事が頭をよぎった。白石先生の名前を思い出した。

 

白石先生に憧れた4歳の僕だった。
白石先生に会いたくて、単なる風邪でも、

ワガママ言って北里大学病院へとクルマに乗せてもらい通院したっけ。
あの感覚が蘇ってくる。

 

エレベーターで小児病棟へ。
ナースステーションに行くと、誰もが『こんにちは〜』と。
明るい挨拶に返答する事だけで精一杯になったけれども、

それまでの自分の中にあった緊張を馬鹿馬鹿しく思いもした。

 

病室まで案内されると、寝ている彼女。
点滴のチューブに繋がれている右腕。
左腕は、包帯をしていても、3倍ほどに膨れ上がっていることがわかる。

 

彼女が目覚めたらなんと声をかけるか…。

スヤスヤ寝ている彼女の横でそんな事を考える時間、5分くらいだったかもしれない。

彼女が目を覚ますと、第一声は、『お父さん』ではなく…『田辺先生は?』

 

僕にはさっぱりわからない。
ベッドには主治医は佐野先生と記入されている。誰なんだ、田辺先生とは??


彼女に田辺先生の事をきいてみると、声が変わった。
かなり可愛らしい声で照れが入りながら
『あやめちゃんの好きな人』


いや〜、参った。蜂窩織炎どころでなく、4歳児が恋の病にかかっている。

 

僕の頭にも蜂窩織炎よりも、娘の心を奪ったオトコに興味津々。
彼女からのオーダーは、田辺先生に手紙を書きたいから、折り紙を持って来てほしいと。拍子抜け。

 

意外にも彼女は日医科大武蔵小杉病院での時間をエンジョイしている。


ナースにも聞き込み。もう、このタナベなるオトコとの対面に備えている僕がいる。

『もうすぐ田辺先生来ますよ〜』
病床でお会いした。

 

いや〜、なんとイイ男なんだ。
優しい表情に、子供の目線ですべて説明。こりゃ〜、心奪われるのも仕方ない。


勝手ながら男親の感覚で、『参りました!』となった。
二週間ほどの入院生活を経て、退院の日。


ナースに田辺先生の下のお名前を聞く彼女。もう、モジモジモジモジ。


主治医の佐野先生がいらっしゃると、
彼女は、『田辺先生は…いないの?』
ナースが言う。『今日は外来をされてるから、こっちこれないかな〜』

 

すると主治医の佐野先生、『僕、外来を、田辺先生と代わってきますから、田辺先生、来てくれるようにしますね』

 

なんて、心を大切にしてくれちゃう先生や、ナース達ばかりなんだ。この病院。

 

その後も蜂窩織炎が再発すると、日医科大武蔵小杉病院へ。

 

外来では右田先生にお世話になり、採血があると、泣きそうな彼女に右田先生が言った。

『あやめちゃん、お注射は、田辺先生がやってくれるようにするからね!頑張れ〜だよ、田辺先生に強いとこ見せようね』

 

これって、カルテにあやめが、田辺先生を好きってことが書いてあるんじゃないのか!(笑)

 

細かな配慮。処置室に彼女だけが入ると、

病棟からわざわざ田辺先生がやってきて、ナースも4人ほど。

泣き声が聞こえてくる前に、

 

『フレーフレーあやめちゃん!フレーフレーあやめちゃん!!』の大合唱が外来診察室の空間に響いてきた。

『あやめちゃんー、がーんばれ!あやめちゃんー、がーんばれ!!』

ナース4人の大合唱が続く。

素敵なナースさん達ばかりだ。

 

親として、目頭熱くなる思いだった。
泣くこともあるけれど、彼女はもう、

田辺先生、そして日医科大武蔵小杉病院のファンである。何を隠そう、僕もだ。

 

病院のエントランスをくぐる。挨拶が交わされる。

明るい気持ちになれる、そんな環境は、この病院に携わる一人一人が作り上げているものなんだと感じる。


彼女は自慢する。

日医科大武蔵小杉病院を知ってからは
『あやめちゃんの病院はね〜、好きな人がいるんだよ。田辺先生がいるんだよ、髪がないけど、右田先生がいるんだよ。みんなフレーフレーって応援してくれるんだよ。コンビニもあるんだよ。プリキュアのお菓子もあるんだよ。田辺先生と結婚するの』


その自慢に僕は『いいよ〜』と答えるのみ。妹も、憧れと共に聞いているみたい。

87c6e669f611439db79995b9dd04f988

この病院の近くに住んでいる誇り。安心。嬉しさ。彼女には、今、この病院で経験する人との心の繋がりを、しっかりと掴んで欲しいと思う。

 

もうすぐ運動会。その練習で、ちょっとした擦り傷でも、彼女は言う。『田辺先生に会いに行きたいの』
彼女の病院自慢は、どうやら幼稚園でもらしい

幼稚園の先生にも言われる。『あやめちゃんは、恋の病なんですね!』

どうやらこれは、日医科大武蔵小杉病院でしか治せないみたいだ。

 

Db9cbdee89f74f498f76a4f7721d84b8

そんな病院に、また、昨夜からお世話になっている。

心配はない。

なぜなら、日医科大武蔵小杉病院だからだ。

|

2019/05/16

美味しいものは、裏がない、嘘がない。

美味しいもの、旨い酒、

そういったものを味わうとき、

裏がるか・・・なんて考えない。

Img_7242

『いやー、美味しい!』これに尽きる。

美味しいものを食べた後に、この食材には裏が・・・なんてことは

考えること、ないだろう。

まあ、調理師さんとかなら、調理法に関して思いめぐらせることもあるかもしれないが、

警戒はしない。

しかし、最近は美味しい話には裏がある・・・なんて、当たり前になってきた。

オレオレ詐欺の類だとか、まあ裏があるわけで。

言葉に関しては、美味しい言葉に裏・・・勘ぐってしまう。

ラジオはそれこそ、言葉のいっぱいなメディア。

そんな風にならないように、注意している自負はある。

JA全農の番組を担当して、はや5年近くだろうか。

美味しいものをいっぱい頂いてきた。

やっぱり、この番組では、美味しいには、裏がないを証明している。

でも、美味しいの裏側には、ちゃんと努力している生産者の皆さんがいらっしゃること、

思い出していただくことができればと、この番組がその一助になればと。

番組をやってる自分たちもしかり。

Img_7252

番組後に、東京支社長を迎えての、お酒を堪能する時間。

こういう時間が持てる、

こういう機会がある幸せ。これは現場にとっても嬉しい時間で。

美味しいものを囲んで忌憚なく話せる時間。

『あんなラジオ番組のような・・・』ではなく

『こんなの、創りたいです』が実現できるように。

一方で、

世の中には、裏がなくとも、心がない言葉が出回っている。

今宵もそんな言葉の羅列に遭遇した。

行動と言葉が一致しないのに、言葉だけは並べ立てる。(笑)

偽物の言葉。

そういうのが、普通になってしまっている世の中、

それに気づかない、麻痺した、言葉の軽薄化。

それに対抗するためにも、もっともっと言葉と音楽だけが勝負のラジオが、

ちゃんとした言葉と、言葉を偽物にしない姿を出さなきゃいけない。

それは、僕の場合、ラジオ以前に、まずは子供に対して。

カッコいい父親でいること、自慢の父親でいること。

子供達には出張中で会えていない時間だが、

それでも、気にしてもらえるように。

それが出来て、ラジオに臨まなきゃ、それこそ、

言葉の軽薄化に加担してしまう。

そんな自覚をあらためて覚えた今。

そんなんがいっぱいだからこそ、

いまや人の言葉を信じない・・・が前提のテレビCMもラジオCMもいっぱいだ。

これって、悲しくないかい?

結果薄っぺらな言葉ばかりを伝えるメディアだったりも増えてきていると考察できちゃうし、

信じるに足らない言葉ばかりを投げかけてばかりの人。

さっきまで言っていたことは???となるようなケースだってある。

言葉があふれかえっている。

その中で、真実の言葉がどこにあるのか。

誰が真実の言葉を使っているのかを、見極める力も養いたいばかりだ。

 

 

| | コメント (0)

JPコロニア、コスパ高し!

新しいアフターシェーブローションを入手。

僕の持っている中では、英国のトゥルフィットヒルに続いてのお値段。

トゥルフィットヒルが一万円以上だから、

それでも、次ぐ値段。

だいぶ違いはするが、ちょっと自分も、もっともっとオトナに変わってみようと。

4711ポーチュガルという選択肢もあったが、

少しだけリーズナブルなこっち。

でも、この製造販売元は、そもそもポーチュガルを作っていた会社。

Img_7256

香りが精神に及ぼす作用も研究している。

爽やかで、アルコール度チョット高め。

一瞬、ヒリヒリっとするが、それこそ、消毒されてる実感を味わえる。

これを使うことで、新たな自分に向かっていると行動を始めることができる。

こういうところにかけるコストは、意外なほどパフォーマンスが高かったりする。

シェービングはメンドクサイ・・・と認識するか、

それを楽しむかで一日の始まりが変わる。

そこへの投資と考えれば、コスパは素晴らしく良い。

さ、今日も品位忘れずがんばろ。

 

| | コメント (0)

2019/05/15

何てことを・・・

僕が大好きだった箸があった。

Img_7213

シンプルなブラックでPPS樹脂製。

2010年だったか。

横浜での結婚式。

妻の一番の親友、かよこちゃんの挙式で配膳に並んだもの。

彼女と妻とは鶴見女子出身で、その時からの一番の親友同士。

その式の帰り間際に、今日の記念にお持ち帰りください・・・

と言われて、その箸を持ち帰ってから、

本当に僕の一番の、自宅でのお気に入りの箸だった。

なんのことはない。その頃から流行り始めていた、

割り箸ではない、リサイクルプラスチック製のリユース箸だが、

ちょっと高級。その類の中では。

これが本当に使いやすかった。

それを、今宵、家族で蟹を頂いている時に折ってしまったのだった。

あの式には二人で参加したので、二膳分、4本はあるのだが、

3本になってしまった。

折ってしまった時、僕の妻は、特に気にする素振りも見せなかったが、

本当に、悔いる気持ちが、僕の中には生まれていた。

その箸は、僕の中でも見事に、かよこちゃん、彼女の思い出になっているから。

Dscf0169

なぜか。

 

かよこちゃんのお父様は、僕も舞台で何度もお世話になっていた

横浜ランドマークホールも入るランドマークプラザ、その支配人さんで、

僕もお会いしたことがあった。

とっても品のある紳士で、優しい目が印象的。

その昔、家内は、横浜勤めだったので、デートと言えば、横浜。

家内と横浜をデートしてれば、かよこちゃんも一緒になって、

そしてかよこちゃんのお父様に、ご挨拶したことも。

あの頃は、僕が舞台なんかに取り組めば、そりゃー、何か月も会えないこともざら。

舞台でツアーなら半年会えないことだってあった。

そして久々会える時には、

かよこちゃんも一緒に横浜で・・・なんてこともあった。

そんな当時の僕の彼女・・・であった妻を支えてくれていた、かよこちゃん、

そのお父様は、2010年になる前に他界・・・。

それで迎えた2010年の、かよこちゃんの挙式だった。

家内と結婚後、僕はかよこちゃんと会うことはなくなったが、

結婚して間もなく、かよこちゃんに病気が発見されてしまう。

ガンだった。

すっごく長く闘病して、再発、再発の繰り返し。

病院から家内と話すことが楽しみだった彼女のラインでの電話。

それが昨年、ある日突然、ラインから男性の声での連絡。

かよこちゃんの旦那様の声だった。

ラインの一番上にあった履歴で、電話をしてくれたとのこと。

かよこちゃんが、天に旅立った連絡だった。

目を真っ赤にして、耐えていた妻だった。

そんな時間も耐え抜き、そしての今。

我が家の食卓には、僕がお気に入りで並ぶ、かよこちゃんの挙式で頂いた、

その箸があったわけだ。

それを今宵、見事に折ってしまった僕である。

モノにコダワリを持つ僕なら、ショックで言葉にならない。

もちろん、モノのイデアとしての存在もあれば、

思い出としての象徴であった箸。

でも、妻は、『折れちゃったねー』の一言ですましてくれた。

そこに、痛切なる罪悪感を全身で受け止めていた僕がいた。

僕にできることは、それを一生懸命、同じものを探すこと。

そうする作業を経験することで、思い出を新たなモノに引き継がせること。

それしかない。

 

| | コメント (0)

2019/05/02

カキツバタなGW

今週は、週の半分出張ではなく、戻ってこれた。

 

さて、年齢を重ねることで、
謙虚になる部分もあれば、
傲慢になっている部分もあるんだと、深く認識するこの頃。
Img_6183
例えば、苦労を知ることで、謙虚になる。感謝が増える。

 

一方で、子供の時や、学生時代に比較したら、
お金を使えるようにもなり、
お金で得られるものに対して、そこは傲慢なっているようにも思う。

 

小さな額ではあっても、『金のチカラ』ってやつだ。
まあ、僕が言っても、笑われてしまうばかりかもしれないが、
そんなとこだろう。

 

それが、だ。

 

手に入れられないもの、
例えば、時間・・・というものに対して、
切なくなる感覚というのは、
これは手に入れることが出来ないから・・・
ではなくて、お金を払ったとしても、切なさが購入できないことで、
味わえる感覚というものもある。

 

在原業平が、京都十輪寺において塩竃を焚いたような時間。

 

そういうものは、お金や対価を払ったとしても手に入れられない。

 

享楽は手に入れられるかもしれないが、
そうではなく、それこそ在原業平が過ごしたような時間というもの。

 

誰かの事を想い、そのことを思考するための『時間を味わう』ような人生。

 

学生時代、水越先生のもとで、在原業平の研究をしていた
当時の僕の方が、まだ、それに近かったかもしれない。

 

水越先生は、古文に関して、解析ではなく体験なんだと、
いつも仰って下さっていらした。

 

古文は解析されるためのものではなく、
心を伝えるために記されたツールなのだから、
そのツールは解析したって、意味がない。
『理解できる心を養っておくべき』だと。
彼と同じような境遇を経験した人にしかわからない文言が、
伊勢物語には散りばめられているんだと。
『だからこそ、それを理解できる人間になることが、岡田くんの研究なんだ』と、
そんな言葉を僕に下さった。

 

これは、大学の研究室で、島川聖一郎先生も、
同じニュアンスの事を、シェイクスピアに関して仰っていらした。

 

シェイクスピアは、読解されるために、文学として残したのではなく、
上演されるために、脚本を書いただけなのだと。

 

シェイクスピアの作品、それは文学ではなく、上演のための台本なのだと。

 

上演するために理解できる人間としての心を鍛えることが、理解の第一歩なのだと。

 

ゴールデンウィーク一週間前の土曜日、
右肩の剥離骨折をして、
それでこそ知りえる感覚、
病床の不自由であるという感覚すらも、購入は出来ない。
今回は、存分に味わってしまった。
まだ、痛みはあるが・・・。

 

これを苦痛ととるか、味わえたと喜ぶべきか。

 

正直、なかなか痛みに対して喜べる僕ではないが、

 

平成の最後にこういうチャンスが訪れたとも表現でき、
それは、感謝できている僕には、なっているように思う。

 

そして今、在原業平が感じえたような感覚は、
このゴールデンウィーク中だからこそ、
仕事をいつも通りこなす自分、そして、いつもとは違う聴き方をして下さる方々、
そしていつもとは違う時間の流れの中で、切なさを味わえている僕がいることで、
存分に味わっている。

 

否、ありがたいことに味わえてしまっている。

 

グリーン車から駅に降りると、
いつもは現実に飲み込まれる。ラッシュ時の駅の状態に飲み込まれる。

 

しかし、今週は、駅に降りても、改札口まで普通に、
そのまま歩けてしまっている。
グリーン車から降りても、グリーン車のような快適な移動。

 

そんな快適さの中に、いつもの日常の喧騒に恋焦がれる、もう一人の僕自身。

 

家庭内での紛争のような忙しい朝の時間、それを乗り越えて送る幼稚園、
そんな慌ただしい朝の時間もなく、
幼稚園もない、平和な朝。
その一方で喧騒を恋焦がれたように、朝の慌ただしさを恋しく思う僕自身。

 

このギャップに対する対価というのは、
とてつもないもので、買うことが出来ないものであることは、明らか。

 

これは何十年と経験していなかった感覚かも知れない。

Img_6184
今日の番組の相棒、高賀茂さんが、
『眞善さん、これは令和以上に、いつものGWとは違いますね!』なんて言ってくる。
そりゃそうだ、剥離骨折の痛みもあるもん。でもでも、でもね、違うのはわかる。

 

これを水越先生ならば、どう過ごせ!と仰ることか。
なんとも、カキツバタなGWの僕である。

 

|

2019/05/01

変わるからこそ、向き合う

真剣に向き合ったからこそ、

出来る事もある…はず。

Img_6177

片や真剣、真剣が一方のみで、片や、そう言う思いが重なっていなかったと、後からわかった場合、

それを知った場合、その成果は、期待していたものではなくなってしまう。

 

 

 

僕は、熱血タイプでもないし、出来ればそんなとこは、通りたくはない系統なんだけど、しゃなりしゃなりと、時間を歩みながらも、真剣なときは、しゃなりしゃなりしながら人一倍、ちゃんとしていればなと。

そう願うから、そうしてる覚悟。

 

普通のことを、しっかり普通に。

 

普遍的なこと、それを乱して是とする事には嫌悪感すら抱くし、

そもそも、自分が支えられて、今があることを認識出来ているのかと。

 

自分さえ楽しければ、良ければ…。

そう言う思いって、とても嫌で、そんな思いを認める、賛同する気持ちすら、僕はとっても嫌悪。

 

表現としては、柔らかい言葉の羅列されたものかもしれないが、その実は、自分優先主義で、社会とか、そんな概念がないからこそ、そんな思いを持てる。

 

それを是とする感覚。

そこに共感する感覚。

 

それらに対し、社会の中で生かされているのだからこそ、そしてお金が回ると言うのは、根本に社会があるからこそと思う気持ち、だから生活出来ているわけだし、生かされている…、と、しゃなりしゃなりではあるけど、責任があると考えること。

それが、人々の生活、営みが、これまで続いてきていた『優しさ』なんではないかと。

 

その優しさを、当たり前、普通と思っては、なんて鈍感なことか。優しさに気づかないことか。

 

親への感謝とか、

実質、後になってから、親になってから初めてわかる事もある。

 

まあ、僕の場合は、自分が親になって、初めて、父親にパフォーマンスで可愛がられていたので、そこに本当の愛がなかったのだと、初めて知ることにもなったが、多くの場合はその逆だろう。

 

親が子に愛情があることは、それは普通のこと。そんな普通を普通と言えること。

 

その普通、受けた側が、普通だと思っては、あまりに寂しすぎる。

 

時代が令和になった。

 

平成の終わり、天皇陛下が武蔵陵墓にて、昭和天皇にてを合わせられていた。

昭和天皇を…。

アナウンサーがそんな言葉を使っていたが、まさしくその通り。

 

なんだけど、

その実態は、子供が、親に手を合わせる…と言う、僕らにでもある光景。

 

これが続いてきての、何回も続いての今に至っている。

 

そんな歴史の自分が一部でもあるという事。

 

そう言う思いがある事を、

例えば、比較対象にされてしまう事。

 

そんな感覚をどっちでもいいと、言えてしまう事が、僕には驚きでもある。

 

令和と言う時の幕開け、色々真剣になる瞬間を味わっている今である。






|

2019/04/26

痛みを受け入れて

P1010158


わがままな思考に陥ってしまっていると、自分の痛みばかりしか認識できず、
相手がどれだけ今までリスクを回避するために努めていたか、
どれだけの痛みを伴ってきていたのかを評価できない場合があるんではないだろうか。

そのリスクとは、軟着陸することであり、そのために、実は陰で犠牲にしたもの、
つまりは見えないところ、見させないところで、リスクを払ってきていたという言う事を見ずに、
現状では着陸できている事を、当事者として当たり前だと思うのは、稚拙な現実主義のように思う。

見えているものを、実現させるためには、
見えていない部分で、あまりに多くの犠牲が、実はあることを、想像することも必要だ。

自己本位になっているときに、主張もすべてが自己本位で、
相手の見えていない時間を想像する力が欠如していて、
見えている部分で、着陸できている現実を、話のベースとしてしまう。
それでは話も噛み合わない。

なぜなら、日本語には建て前と本音がある。
本音だけで会話を成立させてしまえば、それは楽。

それが理想だろうか?
そんなことはない。

しかし、実は本音というのは『欲望の正体』であり、
相手のことを、本気でおもんばかろうとする時に、建て前がある。

建て前というのは嘘ではなく、相手のことを最優先した結果の言葉でもある。
その時には、欲望の正体である『本音』を口に出せない。
それこそが配慮。

つまるところ、建て前だから、真剣じゃない・・・のではなく、
建て前だからこそ、その建て前のためには、見えない犠牲が陰に存在しているということ。

その見えていない犠牲は相手のために。

それが、わかる人もいれば、想像することすらも出来ない人もいる。

例えば病院で、何らかの告知を受けたとする。
その時に、医師が相手のことをおもんぱかって、
『もう退院ですね』と言うことがあるだろう。

その時に患者の方が、この医師は完治していない自分に対して真剣ではない…
と判断したらどうなるだろうか。

医師には、それ以上の考えと、思考、悩んだ上での決断としての
『もう、退院ですね』という言葉であって、

この医師は、あくまでもその患者のこれこれからの事、
そして生きている時間のことを考えて
病院から解放しようとしたのであって、その患者を見捨てたわけではない。

そこに対して、患者から『この医師はだめだ』と裁判を開かれたら、
医師としては、情けないことこの上ないだろう。

医師であるならば、そりゃ、すべての病を取り除きたい。
しかし、それは本音ではあるが、『生きること』を患者本位で考えたとき、
患者のことを考えたら、実験台にしている・・・となることだってあるだろう。
だからこそ、退院させるのだ。

自分は治療を進めたくとも、本音と建て前、それを天秤にかけて、
医師としてできることを断念し、患者を、『活きる時間』に放つわけだ。

それを、見放された・・・と取られてしまっては、
あまりに患者の方の思考が傲慢である。

こういう事は、医師から、慎重なる病の告知をされたことがある、
そんな経験者でないとわからないのだろうか…。

医師と患者の間にはケアマネージャーがいたりもするが、
日常においては、それはない。

だからこそ、想像力、思考力は常に持ち続けたいもの。

|

2019/04/25

重なる瞬間

見ずもあらずも見もせぬ人の恋しくは
あやなあく今日や、眺め暮らさん
月やあらぬ、春や昔の春ならぬ
わが身ひとつは元の身にして。
起きもせず寝もせで
夜を明かしては、春のものとて眺め暮らしつ・・・。
(伊勢物語)
Img_5803
一瞬でもすれ違うことで、
その日が元気になることもある。
その一瞬が、意図しない瞬間でも、それが
抱えている問題から解放される時間になることも。
水曜日は四時間の生放送。
自分たちは四時間を通してのコンテンツと考えるケースが多いけれど、
実際、四時間を通してこの番組を聴いてくださっている方というのは
それほど多くはないはず。
車を使った一瞬だったり、車からおりての作業中だったり、
四時間の中から切り取られた一部を共有する場合がほとんどじゃなかろうか。
だからこそ、一瞬のすれ違いが、良いものであればと。
四時間を通しての結果、『よかった』ではなく、
一瞬のすれ違いが、『よかった』になれば、
それこそ本望にすべきことなんだなと。
(中略)
土曜日、激坂を上り中に剥離骨折した。
それから腱板断裂も。
もうこれが痛いのなんのって。
なかなか眠ることもできない。
すがる思いで期待して頼ったものこそ、まったく頼りにならずに、
かえってストレスになってしまったり・・・
優しさで出来ていると言われるバファアリンの方が、よほど頼りになる。
それが、一瞬でも楽になる瞬間がある。
そんな瞬間のような番組である四時間。
その一瞬。
そういう時間が連続になっている四時間ならば、
目指している優しさになるのではないかと。
今回、痛みに包まれた時間の中で、改めて感じた。
本当の特別は、それまでの時間ばかりにとらわれることなく、
その時に進行される事に感じる幸せにあるんだろうなと。
今は、痛みが和らぐ瞬間、忘れられる瞬間にあるんだと。

 

 

|

2019/04/18

夢語れるか、ビジョンを抱いているか、

 

 

ラジオの仕事をやっていると、

これは必然的に、世間の感覚が番組に届く事になる。

それは日常の些細な事だったり、家族間の問題だったり、それこそ恋愛の悩み、そして、答えられるかわからない相談だったり。

それは、良いことも悪いことも。

している側も、されている側からも...。

だから、このラジオで会話する立場でこそ、見えてしまう部分もあったりするもの。

 

ゆえに、身の回りの人様の、恋愛などにおいて、立場を顧みずに、

『うまく使われてしまっている人』

と 『使っている人』というのも見えてしまうという、不都合は僕の中にはある。

 

例えば、男でも40代になって、恋愛をするのであるならば、それこそ、責任の所在をはっきりした付き合い方をするのが、普通に考えられる多くの40代男。

だって、番組に来るメッセージで40代男性からのメッセージはそういうものがほとんどだから。

 

悩むところが、そういう点に主眼が置かれた話題ばかりだ。

これが、20代ともなるとまた違った相談内容になってきている。

 

そして、20代と言うのは、僕も経験してきたことなので、他のメッセージを見ずとも、僕自身の感覚で読み解ける部分もあったりする。

 

ただね、やっぱり40代の男が恋愛するともなれば、そこには20代とは違う、30代とも違う、絶対的な責任を持ってほしいんだよね。

 

相手だって、大抵は20代の女の子とかでは無いのだから、相手の時間も消費していることに気づいて、

 

だからこそスタートから責任を持った恋愛をしてほしいと願ってやまないわけだ。

 

正直、未来のことも話し合って、

『恋愛をスタートさせる段階』において、すでに話し合っていてほしいと思うのが、僕を始めとした、他の40代男からする、一般的な感覚なのではないだろうか。

 

そうであることを願って止やまないのだ。

そうでなければ、40代の男の恋愛は、ただの相手への腰掛けになってしまう。

相手を『腰掛け』としての存在として見ていないのであるならば、それこそ、ちゃんと未来を、ビジョンを語って欲しいもの。そして行動が伴っていて欲しいもの。

 

僕の場合は、語ったビジョンが現実になっていないと言うのはある。

でも、これは不可抗力と言っておこう。

収入に関しての事だから。

 

それでも、『ビジョンを語ることをしなかった』…と言うことはない。

 

夢は、語れた。

語るに相応しい存在だったから。

 

そして、そうする気が、あったから。

だから考えていた。だから語れた。

 

家族には、ビジョンが現実的には伴ってない事を申し訳ないと思うばかりだが、それでもビジョンは、ちゃんとあった。

 

その上で結婚して、さらにその上でのビジョン。

 

夢なくして、今だけを堪能しているようでは、20代30代ならまだしも、40代となっては、40代の男としては、世間の感覚とは明らかに違う。

 

番組によくメッセージをくれる春山●●●●●●さんの悩みや、相談って、やっぱり、

40代の男ならではの相談だなぁと毎週のように感じる。

まあ、僕の場合は、そりゃ『収入に関する面のみ』ビジョンをなし得てない…

とは、決して思ってはいないが、

『仕事の面』に関しては、語ったビジョンを現実のものとさせて頂いている。

 

それは、こんな40代の男を支える家族がいて、仲間がいて、会社があって、放送局があって、その他、とにかく大切な多くの人がいて、実現できている事でもある。

 

それゆえに、この仕事での、仕事量と収入とは比例しない現実をも、

ひしひしと感じながら、今でも仕事においての夢は語れる僕が、今でもいる。

 

世の中には、そのビジョンを、どんな尺度で判断するかによって評価が分かれるところもあると思う。

もし、それが収入と言う面で判断されるのであるならば、僕はダメな男だ。

 

でも、語ったビジョンを、収入以外の部分では実現させてきていると判断してくれている家族がいる。

 

だから、やってこれてる。

 

夢、ちゃんと語れて、

それはビジョンを持っている事の証明で、そして、努力するための後戻り出来ないはずの言質でもある。

 

すでに、僕には語れない事もいっぱいあるけど、

語れるならば、『ちゃんと語る事の出来る』40代の男でありたいと、心から思っている。




|

2019/03/21

那須塩原、君島市長、やすらかに

那須塩原の君島寛市長が3月9日に亡くなられた。

そして、市民葬が昨日、執り行われた。

君島市長、思い出が多い市長さんだった。

市長という立場とは別の質問にも、
快くインタビューに答えて下さり、
また、それが、市政への原動力にもなっていると感じた時だった。

市長である今、一番の嬉しいことって、何ですか?という質問に、

『自分の一番の楽しみは、正直なところ、孫と遊ぶことなんです...』と。

答えにリアリティがあった。

『だから、孫が住んでいる国、この地域をより良くしてね、
次の世代、そして孫の世代に渡さなきゃ、なにせ、孫が可愛すぎるからね~』と。

本音以外の何物でもない。

トゲがある質問をすれば、
毒のある答えで、話して下さり、
そういう空気を読んで下さる方だった。

何より、孫と遊びたかっただろうに。

よく、おじいちゃんおばあちゃんは、孫に責任がないから、
より溺愛できるし、なんでもしたくなっちゃい、
全ての原動力になると、
多くのお年寄りに、孫との関係を伺う事で、
これからの時代を演出する『マゴマゴタイムス』と言うテレビ番組をやっていた僕は、
インタビューでさんざん聞いていた。
雑誌『孫のちから』でもそうだった。

そんな原動力が、君島さんは
、見事に市政にと、活かしていらっしゃった。

自分でなく、何より孫、孫世代が誇れる那須塩原のために。

言葉だけでは済まされぬ、本気の愛情が、
その根底にあったんだと、感じていた。

素敵な市長さんだった。

その心意気は、多くの方々に息づくポリシーになっていることと思う。

どうか、安らかにおやすみください

|

2019/03/20

危惧する兆候

見事なまでに、近ごろは、物事の判断を、単一的な価値観ばかりで決めつけ過ぎだと感じるのです。
ニュースをみても、『いい』か『悪い』...。
『適切だった』か、『そうでないか』...。
そんな判断ばかり。
何かを批判するには、その尺度だけで、物事判断するのが容易なのでしょう。
それを気にしてニュースを見ると、ホント、事実を伝えるニュースが、
結論として『適切だったか調査するということです』で結ばれている。
そんな限られた2つの尺度でばかり社会を評価する風潮がこのところ強いかなと思う。
本来は、もっと人間らしく,
好き,、嫌い
タイプ、タイプでない、
おいしい、まずい、
美しい、そうは感じない、
愛しい、愛しくない、
とにかく感情ごとに、そうかそうでないかがあっていいはずなのに、
例えば『おいしいは…良い』で、『まずいは…悪い』
と言うような判断になってしまっている。
だからこそ例えば
『髪が短い、ショートカットの女の子が好きでさ、タイプかなー。』
なんてことを言えば、
『それは髪が長い女性に対して、差別に当たる、適切でない!!』
なんて事を言われるようになってしまったり…。
自分の嗜好を話しただけでありながら、
それが勝手に『適切でない!』などと、そう言われるのは
ちゃんちゃらオカシイ。
Pb118303
以前に、演劇の演出に関しても書いたことがあると思うけれど、
いい演劇も悪い演劇というもの…は、存在するまでもなく、
それは、観客の主観での、好きか嫌いかで、それでいいんです。
映画にしても絵画にしても、芸術全般に対する判断で、
善悪はないと思うわけです。
もちろん、道徳的な観念はそこにはあって当然と考えた上で…ですが、
個人が、言葉や作品を『良い、悪い』で判断することは、
あまりに短絡的であると思うのです。
それ以外の尺度というものの存在を否定してしまっては、
それこそ人間が、ゼロかイチかと言うデジタル的な判断のみで、
動かされてしまうことにつながってしまうと思う。
そんなデジタルでできないことを、人間はやり遂げるのであって、
だからこそ非合理的なことも人間的と言う言葉に置き換えることができるわけ。
そもそも人間が生きていると言うこと自体が合理的ではない。
いろいろな感情が存在して、
いろいろな矛盾や、それこそ無駄なことだって、
恋愛には必要だったりもする。
子育てだって、良い悪いではなく、
いろいろな尺度で認めることができなければ、
子供と向き合うなんて、そもそもが無理な話。
子供には子供の理論があって、それは良い悪いではなく、
興味津々と言う原動力によってつき動かされた行動の結果だったりもするのだから。

それは幼いうちに、いろいろな悪いことも経験した上で大人になってから悪いことをしないようにする経験につながっている。
イスラム教の教えではないが、物事には両端があり、その両端が中和しているところに人間がいる。だからこそ片方だけではそのシーソーは成り立たないわけだ。
幼いうちから、良い!だけを認識しかしないから、痛みが分からないこととか、あるのではないだろうか?
政治の世界でも、
適切であったかそうでないかの議論ばかりで、
信念や理念、理想、未来、国を引っ張っていく議論・・・
と言ったようものが少なくなってきてしまっているように思う。
それは野党が見事なまでに
『適切であったかそうでないか議論』ばかりで、
与党に攻め込もうとしていることからも感じる。
適切であったかそうでないかと言うのは、事後の判断であって、
ことを起こす原動力にはなり得ない。
つまりは、そんなことばかり言ってしまっていたら、
何も始まらないし、人間として生きている時間がもったいない・・・
とも言えるんではないだろうか。
価値観の多様性というようなことが、叫ばれているけれど、
実際には逆行している現状を感じ、
それがまた、ラジオから言葉、スタンス、自由さを奪って行っているようにも思われる。
さらには、その現状の危うさを感じない現場というのも、危険だと思う。
幸いにして、僕の現場ではそういう仲間がいないというのが救い。
なんとも人間らしい価値観を失い始めている・・・
そんな昨今だと感じずにはいられない。

| | コメント (0)

2019/02/20

ドレッシングの味わい…。

どれだけのドレッシングを無駄にしてきたことか・・・。





僕はサラダが大好きである。
今まで食べたドレッシングで記憶に残っているものは多々あるが、
富士急ハイランドの近く、
ホテルレジーナ河口湖のフレンチドレッシング、
北里大学病院のレストランのグリーンサラダ、
海老名の旧オークラホテルのサラダ、
以前の宇都宮東武ホテルグランデの朝食でのドレッシング、

記憶をたどらずとも、
すぐに出てくる、忘れられない味のドレッシングが色々あるわけだが、
そのどれもが、自宅では再現できていない・・・。

ただ、味覚と言うものが、見事なまでに味わう時の環境に左右されると言うことは、
実証済みである。

たとえば、東急田園都市線、つくし野駅前の、コナという小さな喫茶店がある。
ここのモーニングのプレートに添えられている、ちょっとした刻んだキャベツが旨いのだ。ここで、母と一緒に時々食べていたモーニングプレートや、ランチ。
旨かったなぁー。
だが、このキャベツにかかってるドレッシングは、
おばちゃんが、まんま、買ってきた一リットルのドレッシングを
ボトルからかけてくれる。
キューピーの中華ドレッシング。
しかし、これをスーパーで買ってきて、自宅でかけても、その味わいではない。
納得いかず、再度確認して、容量で味が違うのではないかと、
お店と同じ、一リットルのボトルでも買ってみたが、
味わいは自宅では、小さなボトルと一緒だった。
つまりは、コナのモーニングプレートとは味が違う。

さらには、Nack5、レディオファントムの取材で伺った、幸手のブルトンと言うカフェ、
ここで食べたサラダも美味だったのだが、
ドレッシングは、キューピーのすりおろしオニオンだと教えてくださった。
うちのは、普通なんですよ・・・と。

で、購入した。キューピーのすりおろしオニオン。

しかし、自宅で再現しても、まったく味わいが違う。

つまりは、どんな環境下で味わうかによって、味覚と言うものが見事に違ってくると言う証明でもある。

そして音楽でも同じではないだろうか。
ラジオにはリクエストと言う文化がある。
もし仮にその音楽が、とてつもなく好きでずっと聴いていたいのであるならば、それこそCDを何回も聴き続けてればいいわけ。
そしてその音源だって自らが持っているにもかかわらず、ラジオにリクエストしてラジオから流れてくると、また格別なる味わいに音楽を感じることができる。
だからこそのリクエスト欄ではないだろうか。

という事は、誰の、どの番組で、その音がかかるのか、
誰のどんな話の上でその音楽がかかるのか、

これらがラジオにとってはとても重要なんではないかと思う。

それを考慮せずに、音楽だけのチョイスと言うのはありえないし、
そーゆー選択ができるディレクターこそがやはり素敵な事ですからんではないかなと思う。

ラジオで情報発信する…などと言うが、ラジオこそ、発信ではなく受け取るメディアなのではないかと思う。
一対1で向き合って、そのやり取りの様子、それを楽しめる。

だからこそ、他にはない味わいが、ラジオにはある。

ドレッシングが、我が家では味が違うように、
音楽もまた、どんな環境の下で堪能するかで味わいが違う。

あとは、ラジオだからって、特別でないことも。
そのラジオで話している人も、そりゃ人間なんです。
悲喜交々あるわけです。

それを考えずしての行動は、そりゃ、情けなくもなります。

人としての節度は、やはり守らなければと。



| | コメント (0)

2019/02/11

韓国映画『弁護人』を

韓国の映画『弁護人』を見た。

2014年の韓国映画。


Header_main


今、現状を鑑みると、日本とはとんでもない状況ではあるが、

この映画を観ることで、韓国の良心と言うものも、そこに存在していると理解できれば、

その反面、韓国の怖い部分も想像通りに存在している事が理解できる。


この映画は1981年の実話が元になっていて、韓国釜山で起きた冤罪事件

「釜林(ブリム)事件」がベース。そして主人公は過去の韓国大統領である。

故盧武鉉大統領、その人だ。


その大統領が、大統領になる以前の弁護士時代の物語。


普通の大学生が国家保安法のもとに裁かれる事件。それを弁護することで、

人権に目覚め、闘った弁護士の物語である。


それが故盧武鉉大統領というのに驚いたが、

当時の国家権力は、全斗煥の軍事政権で、そこへの敵対意識がストーリーの中心。


こういう経歴、経験のある人間が大統領であったのかと、

僕は初めて初めて知ったわけだが、

その一方で、韓国と言う国の大統領は、

誰1人として任期を終えた後に有罪にならなかった人はいない。

つまり、大統領経験者が、みな全て、犯罪者になってしまう国家…とも言える


O0400056713687006140


この現象は、検証された書籍にもなっていて、

『大統領を殺す国 韓国』と言う辺真一氏の執筆されたもの。


誰一人として、歴代の大統領が、大統領としての任期を終えた後、

普通に暮らした大統領がいない国だと理解できる。

皆が皆、有罪になり、罪人になるのである。

たしかに、歴史、すべてがそうなのである。


それこそが、韓国と言う国を物語っている。

国家保安法と言う名の法律の元に、なんでも感情が優先されてしまう。

国内でさえも、そうなのだから、外国に対し、国際的な常識が

『通常』と言う感覚で存在するとは言えない。


ただ、国家保安法にて敵視された側には、外国でいう『常識』と言うものがあるのだと。


つまりは、韓国と言う国において、

政権は常にAとBが交代して成立しているために、

新政権は常に前政権を批判しそして有罪にするところから政権がスタートしている。


つまりは、理想ではなく、前政権の否定によってのみ、

政権交代するからこそ、前進ではなく、

前政権を処刑することからスタートするしかないのだ。


それは歴代のどの政権も前政権を否定するところで勝利を得ている。

これがずっと何回も繰り返されているわけだが、これを繰り返さない!

と言うことをしない国家、国民がいる韓国という国家…と言えよう。


結局、だれもが、民主主義を守る!という理念のもとに、

独裁主義的な方法によって、意見を異とする存在を否定していく。


つまるところ、意見を異とする存在を否定する事でのみ、

自己肯定を到達させる歴史の繰り返しに近いのだなと感じるばかり。


その一方で、この映画を作った人間がいることも事実。

この映画を作れる人ってのは、それを理解しているからこそ描けているわけで、

一種の警鐘でもあるのではないかと。


今後、日本と韓国がどういう付き合いになるのがベストかは、僕には見えないが、

それでも、『これまで通り』では、繰り返しになることは間違いない。

これまでとは違った対応を続けることを願う僕もいる。


韓国の繰り返し好き・・・に呼応しないためにも、

これまでとは違った対応は必要だと思う。


韓国の中にも、この映画を作った人、この映画の真意をくみ取れる人がいるのですから。


少なくとも、日本は前政権を批判したとしても、処刑から始める国ではないのですから。



| | コメント (0)

2019/02/09

空気清浄機の本質 #nack5

空気清浄機マニアの僕からすると、

こいつは、絶品空気清浄機。
である。
やはり、基本はパッシブで空気を濾すことが何より大切。
そして、濾された空気が綺麗であること。
A180220001
実は高級機で『フィルター5年交換不要!』なんていうのも増えてきたが、
いわば、五年前から蓄積されたフィルターのゴミの間を抜けてきた空気で満たされた
部屋の空気を吸う・・・
と、考えると、精神衛生上、これはいいとは言えない。
綺麗なフィルターで濾された空気の方がやっぱりいいわけで、
こいつは、フィルターの交換も2000円ほど。
新しいフィルターで、新鮮な濾された空気の方が良くないかい?
そう考えた場合、ツインバードは身近になるわけです。
僕もこれを2台使っていますが、埃、花粉はこいつをフル稼働させた方が
家庭内総花粉量が減るはず。
いわば、燃費がいいわけ。
それから、加湿機能付きの空気清浄機も増えてきているけど、
これも分けた方がいい。
なぜなら、加湿しないときに加湿フィルターの濡れ残り・・・
これが、乾ききらないで使うバスタオル、
つまり室内干しに失敗した状況と同じ悪臭の発生機になってしまう場合が多い。
これ防ぐためには、次亜塩素酸水を使いたいとこ。
我が家ではそうしている機種もあるけど、
素直に加湿器を稼働させた方が、
これも精神衛生上、いいんです。
アクティブな空気にコダワリたけりゃ、
パナソニックのナノイー発生器を別に用意した方がいいわけで。
いわば、車でも、サーキットからオフロードまで、
高級ホテルのエントランス車寄せから、砂漠まで
すべての走りをこなす一台・・・
これは、逆にすべてが中途半端にもなってしまう。
別々にあった方がいいのです。
ジムニーとGT-R、センチュリーとね。(笑)
そういう意味で、ツインバードの空気清浄機はジムニー、なんです。
もうオフロードに特化しているわけです。
そして燃費がいいから、走らせることに躊躇しない。
空気清浄機は、そのイデアから考えて、
稼働させてこそ、意味があるもの。
置いとくだけでは意味がない。
だからランニングコストが優れていることが重要。
だからこそ、これからのシーズンは、特にツインバードがおすすめ。
ぜひ、Nack5特選市で。

|

2019/02/07

行きつけ

大宮でも、行きつけ、顔なじみの店が出来てきた。

武州うどんあかね屋や、
この、大宮コーヒーロースターズ。



ここのポークソテーが好きで、
こだわりを持って、栃木の豚を使ってくださっている。







これが旨くて、また、付け合わせのプレートの上のサラダが美味しくて…。

ドレッシングの秘密は、オーナーに聞いても、『これは、ドレッシングではなく、いわばソース』と言うばかりで、教えてはくれない。

この、野菜の味をちゃんと残せるドレッシング、憧れだ。

ここに居ると、時間を忘れて、ゆっくりできる。

もちろん、食後の珈琲も美味しい。



| | コメント (0)

教育において、最優先されるべきものは



今朝の読売新聞

制度や仕組み、規定の話ではなく、心の問題と言う根本だと思う。

学生時代は理解していたとは言えないのだが、
やはり
『教育が国家の財産』

と言った小原国芳の言葉が沁みる。
悔やみきれない念。

親の受けてきた教育がどんなものだったか、そこを反省すべきで、教育において、『心』よりも、制度や仕組み、カリキュラムばかりが何より優先されてきた結果なのではなかろうかと…。

心がちゃんと育っていれば、こんな事は出来ないし、問題にすらならない。
そもそも起きない。

あの問題は、親の段階の教育を反省すべきではないかと、真剣に思う。

| | コメント (0)

2019/02/06

洗濯機の選択の悩み・・・

もうかれこれ、不満を抱きながら、

東芝のドラム式洗濯機を10年近く使っている。
250VGというやつだが、
これまでかなりの額を修理に費やしている。
だからこそ、買い替えられない・・・という心理的環境でもあるのだが、
実は、節水機能が当時は無理していたのだろう・・・
すすぎがなかなか上手くできない。
柔軟剤ではなく、洗剤のニオイが、間違いなく残っている。
乾燥機は使えば、途中でエラーになるし、
カッチカチのシワシワ。
いい加減、室内干しの時の洗剤の残り香で子供が咳き込むので、
買い替えねばと。
でも、いろいろ見てくると、ドラム式洗濯機の相場が
この10年ほどで1,5倍くらいになっていることに気づく。
でも、急激に上がり始めたのは、この3年くらいだ。
Img_0166
取材したことがある経験から、洗濯機は日立贔屓なのだが、
価格comみてみると、乾燥の段階で、排水溝からの臭いを吸い上げてしまうなど、
そんな問題が頻発していて、ユーザーレビューが熱かった。(笑)
設計ミスだと断言する人まで。
すると、やはりパナソニックかなと。
まあ、ばっちり、ぶつかり合う、この2大メーカー。
パナソニックも、洗濯機での取材はさせていただいたし。
ただ、技術者の熱さが、日立はすごかった。
でも、日立、なんだか、新築の環境で使うにはいいみたいだけど、
集合住宅で築年数が経っていると、下水までの配管を意識して、
臭いの問題を考慮すべきなんだと・・・。
いやー、ジレンマ。
もう、洗濯機で東芝というチョイスはサービスのことを考えると、修理高いし、
すぐトラブルあるしなと。
フラッシュエアーとかは、すごくいいのに・・・。
悩んでいるけど、いつ買うか?
そしてどこで買うか?
そんなのが番組で遊べたらいいのに・・・。(笑)

| | コメント (0)

2019/02/05

今そこかい?大切な本質を見ずして…

まぁなんとも重箱の隅を突くような…。


自衛隊の名、実態と合ってない? 無線では「日本海軍」


そもそも自衛隊と言う言葉概念が日本独特のもの。

だからこそ、

自衛隊の意訳を英語でなんて言っていられないって。


『JAPAN MARITIME SELF-DEFENSE FORCE』


そりゃ、正式な表現っちゃー、表現ですよ。


でもアジェンダはそこじゃないって。


海の上、空、そういった場所では意味、存在がわかりやすいほうが、

相手のためでもある。

しかもその言葉ですら相手から…聞き取れなかったなどと言われてしまうのだから。


そこに深い意味を見出そうとすることこそ、

今の日本で安全に暮らしていけることが、

そもそもどれだけありがたいことなのか、

現状で素晴らしいことなのかと言う、

その見えないとこにどういう労力が費やされているかの認識不足。


見えることばかりで、見えるものだけをみて批判するなら、稚拙すぎる。


実は日本の自殺者数が減少傾向にあると。


そういうこともちゃんと認識しなきゃいけない。


その上での話だ。

切羽詰まった状況から抜け出した人が増えたと言う事でもある。


それを差し置いて言葉の問題…いや言葉の問題以前に、

それを取り上げる感覚こそが物事の争点見ずして、

同じ日本の足を引っ張っていることに気づかないのかと。


まぁこうして重箱の隅を続けることこそが、

ドンダケありがたい環境下でのことなのか…。


もちろん、僕にもわからない感覚だったり実情はある。

しかし『今そこ??』

なのである。


全く以て『JAPAN NAVY』でいいんじゃないかと。

いわば、その日本語訳の認識を日本である、

当事者の我々が理解していればいいわけで。

日本独特の見解を押し付ける英語訳でなくてはいいんじゃないか。


現場の状況を知らずして、

外野からワガママの押し付けは、平和だから出来ている事実。


そんなこと言ってられない世界だってある。


|

«綺麗・・・の概念